2011年9月28日 (水)

最近の読書から:『原発文化人50人斬り』

1.『原発文化人50人斬り』、佐高信、毎日新聞社、1500円

 

 野田首相は、国連演説で「日本は、原子力発電の安全性を世界最高水準に高める」と言ったそうだ。日本の原発は絶対安全であった筈で、演説は辻褄が合っていない。

 東電原発事故は、絶対安全が単に神話であったことを白日の下に晒けだした。 なぜ神話が成立したのか、絶対安全でなければどの程度の危険を内包するか、私は知らない。しからば、大筋くらいは見通せるように基礎知識を蓄えることが急務だ。

 

 本書は書名からも察しが着くように、原発を近く遠くに取り巻く人物に焦点を当てているところだ。

 「第1章 原発文化人を原発戦犯」では、神話を作り出した政治家・評論家・文化人・タレントなど50名の名前を挙げる。その中で「中曽根康弘、渡部恒三、与謝野肇の政治家トリオ。斑目春樹、近藤駿介の専門家コンビ。吉本隆明、梅原猛の知識人もどきがA級戦犯である」と指摘する。B・C級を含めて大抵の人は見分けられるだろう。

 「第2章 反原発の群像」では、高木仁三郎、松下龍一、広瀬隆、小出裕章、忌野清志郎に言及する。忌野清志郎を除けば、東電原発事故が起こるまでは隅に置かれていた感じが強い。ただし、そのことが実績や正義の観点で劣ることを意味しない。体制とソリがあわなかったと言うことだ。

 どの範囲まで網をかけたかは不明だが、私が持ち合わせる知識で、納得できそうな人、判断の付かない人、入り乱れている。

 

 「第3章 東京電力の歴史と傲慢」「第4章 メディアと原発の危険な関係」で、全ページ数の1/3強を占めるが、章題に昨今の状況を重ね合わせると、およそは推察できる。本書の重心は「第1章」「第2章」にあると言える。

 本書は、原発を取り巻く人物像を手っ取り早く理解する人名事典の位置づけ。自分なりの原発人名事典を作る契機にしたら良いだろう。私が行った本屋では平積みされていたので一度手にしたら如何か。その先はじっくり考えて。

   (2011年9月27日記録)

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2011年9月14日 (水)

最近の読書から:『観光アート』

1.『観光アート』 山口裕美、光文社新書488

 「観光アート」は言葉としてこなれないが著者の造語、「アートを見ることを目的とした旅」「アートを活用した観光、まちおこし」の意味合いを内包する。意味に彼我両方の視点があるのは、著者がアートイベントやプロジェクトに関わってきて彼我の仲介役を意識しているからである。

 しかし、読者の多くが「アートを見ることを目的とした旅」に関心があるとするならば、本書の後半を占める「第4章 一度は訪ねてみたい美術館100」から、好きな美術館を選んで出かけたら良いようなものだ。
 多くは知らないが、それでも新鮮な話題を振りまいてくれる美術館、古くに設立されたにも関わらず今も輝きを放ち続ける美術館が含まれている。

 とは言いながら、どうして「観光アート」のような動きが顕著になってきたかを知ってから旅に出ることも、より良い鑑賞・旅のためには必要だろう。「第1章 観光と現代アート」で大まかな知識が得られる。まあ、疑問が続出するかも知れないのだが。

 「第2章 現代アートの新名所」では、香川県直島の地中美術館、十和田市現代美術館、金沢21世紀美術館などが紹介されている。「第3章 アートプロジェクトの新潮流」では、新潟県十日町市を中心に開催される越後妻有アートトリエンナーレや横浜トリエンナーレが紹介されている。
 行く先を決めかねるなら、ここで取り上げられている美術館やプロジェクトをまず目的地としたら良いだろう。

 私は専門家でなく、生活の潤いとしてアートに接するだけだ。横浜在なので東京・横浜周辺の美術館には時々出かける。年に数回は本書で取り上げられるような遠方の美術館に出かける。「観光アート」を実践してきたようなものだが、私の場合、知識は後付けだった。それも悪くなかったが。

 生活に潤いを付け加えたいと思う方は、「観光アート」というコンセプトに立ち入ってみては如何か。本書はその手掛かりを与えてくれるだろう。新書の性格上、最小限の白黒図版しか挿入されていないが、各美術館のホームページなどを参照することで、立体的な知識が形成できるだろう。

   (2011年9月14日記録)

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2011年7月 5日 (火)

読書:最近の読書から(2011年6月30日)

1.『原発大崩壊!』 武田邦彦著、ベスト新書

2.『原発震災の真実』 広瀬隆著、朝日新書

3.『原発のウソ』 小出裕章著、扶桑者社新書

 

 東電福島事故を契機にして脱原発を鮮明にしたとしても悪いことない。安全神話が、バベルの塔のようにガラガラと崩れ去ったのだから。もっと早くに気付くべきであったと言われればそれまでだが、もっと早く真実が語られていたらとも思う。私の観点は『安産第一』。遅れ馳せながら知識の探求を始めよう、まずは入門。

 

1.『原発大崩壊!』

 著者は原発推進を主張していると認識する。

 最後の章「原子力エネルギー政策はどこへ向かうのか」で次のように述べる。

   (1) 良質の石油や石炭はおよそ1000年分はある
   (2) 太陽光・風力・水力などの「自然エネルギー」は自然を崩壊する
   (3) 日本の原発はすべて危険だが、日本には「安全な原発」をつくる技術はある

 (1)は、表現の差はあっても反原発の主張も言及されることがある。(2)は、その主張が直ちに納得できるものでもなく、多くの資料を探る必要がありそうだ。

 問題は(3)で、著者は内閣府原子力安全委員会委員等の役職についているのに、この主張は論理矛盾と思える。ただ、長い時間をかけて積み重ねられたものだから、個人を突いても何も出ないだろう。「安全な原発をつくる技術はある」とは何を意味するか。技術はあるが阻害要因があるということ。そうだとすれば、それを解消する力はどこから出てくるのかが知りたい。少なくとも、原発が安全でないことが実証されてしまったのだから。

 

2.『原発震災の真実』

 著者は反原発を主張する。

 第一部の「福島第一原発事故の真相」、マスコミや特にインターネットの報道に接していると納得できる。
 第二部の「原発震災、ここで阻止せよ」、プレートテクトニクスから巨大地震の激動期に入った日本を説明する。常識の範囲で理解できるし、阪神淡路大震災、中越沖地震、東日本大震災と続けば実感として理解できる。北から南に至る主な原発の周辺の活断層の説明は、次の巨大地震がきたら何が起きるかと背筋が寒くなる。原発建設後に既知となった場所も少なくないし、判っていながら矮小化した場所もあるそうだ。

 終章の「完全崩壊した日本の原子力」、原発は温暖化対策の切り札と成り得なず、温排水が大陸棚の生態系を破壊する。原発がなくても停電はしない、と主張する。

 東電原発事故は大きな社会混乱をもたらしているのだから、疑わしきは罰して良いだろう。反証は、政府・原発企業が率先して行うべき状況にあると思う。

 

3.『原発のウソ』

 著者は反原発を主張する。

 前半は、福島第一原発事故、放射能の特質、放射能汚染から防護までを概説する。事故の後で規制値が引き上げられたのは、現実の汚染に合わせただけとの主張は、科学的背景無しでも肯定できる。どんなに少ない被爆量であっても、それに比例した影響が出る。安全な被爆は存在しないという、アメリカ科学アカデミーの中の委員会の報告を引用するが、これもその通りだと思う。

 後半は、原発のおかれている状況とこれからどうすべきかを概観する。
 原発は電気を作るけれども同時に死の灰も作る。東京電力は管内に火力発電所を建てても原発は建てない。これらは事実だろう。

 事故の補償をするのは国民自身。電力会社が責任を取らないシステム。原発を造れば造るほど儲かる電力会社。大量の二酸化炭素を出す原子力産業。地球を暖め続ける原発。資源枯渇の恐怖が原発を推進してきた。核燃料サイクル計画は破綻している。これらは、理解をさらに含めて今後の判断の基盤を形成しておく必要があると思った。

   (2011年7月4日記録)

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2011年6月 3日 (金)

読書:最近の読書から(2011年4月19日)

1.『対談・彫刻家の眼 佐藤忠良・舟越保武』
         佐藤忠良・舟越保武著、講談社

 近現代具象彫刻は近づきやすいので、荻原守衛や中原悌二郎ほか片手で足りないほどの作者を上げられる。その中で、佐藤忠良、舟越保武に親近感を覚える。

 佐藤忠良は3月末にほぼ一世紀の生涯を閉じた。舟越保武は2002年に鬼籍に入っている。二人は1912年生まれだから、随分と長い期間に渡って制作を続けたものだ。そして、大きな足跡を残した。

 1月に「世田谷美術館・佐藤忠良展」を鑑賞。昨年は、舟越保武の「原の城」を笠間・日動画廊で30年ぶりに、長崎で「二十六聖人記念碑」を始めて目の当たりにした。

 それらの伏線があった。30年近くを経過して二人の対談集を引っ張り出して再読した。面白くて再々読。

 

 二人の間に、深い友情、相互の尊敬が感じられる。「これからも舟越保武は、何事もなかったようなあの顔で、私の前を歩いていくのであろう。-- 佐藤」、「ライバルという意識はないのですが、彼の存在は、いつも私の左前方三十度の方角にあります。-- 舟越」。本文、すなわち対談のそこかしこに雰囲気は漂ようが、後書きの言葉が全てであろう。

 二人の周辺の多くの先輩・友人が語られている。本郷新、柳原義達、小磯良平、猪熊源一郎、高村光太郎、清水多嘉示、朝倉文夫、きりが無い。松本俊介について、「僕は友だちというと俊介に集中しているね。-- 舟越」「いい友だちを持ってるなあ。-- 佐藤」。佐藤も何度も会っている。私は個々には認識していたが、佐藤・舟越と同時代を生きたのかと改めて思う。松本俊介が長命であったら、そのようなことも思う。

 佐藤の「群馬の人」制作の背景には、今ではとても考えられな美しい話が潜んでいる。舟越の「原の城」のポーズについても言及している。多少前屈して力なく手を垂れているあの姿から、とめどない悲しみを感じる。あのポーズしか無いと。

 「大変な自信のあるような話になるようだけど、君や僕が似たような他の作家と並んで、尻尾を巻いて逃げなきゃならないほどのことはないと思う。しかしそこが問題で、我々の彫刻は決して次元の高いものではないかもしれない、と思う。君を巻き込んでは申し訳ないけど、我々の彫刻あたりが物差しの最低ラインになって、その辺から語られてもいいんじゃないかな。この程度のことで何だかんだ言われていたんでは駄目だと思うんだ。本当を言えばね。-- 佐藤」「我々を踏み台にしてもらわなくてはならないわけだ。-- 舟越」。後進にはなかなか厳しい言葉だ。

 

 30代前半に、なぜこの本を購入したか記憶はない。途中に挿入される写真に興味を持ったかも知れない。対談は70過ぎて行われているが、しみじみと理解できるような思いがするのは私が年を重ねたからだろうか。夭逝した友人達の思いも代弁されているような気がする。

 

注:残念ながら古書しか入手できないようだ。あるいは、近所の図書館で探して頂くか。

   (2011年6月1日記録)

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2011年3月 8日 (火)

読書:最近の読書から(2011年3月8日)

1.『恋する伊勢物語(上・下)』 俵万智著 埼玉福祉会発行

 

 本書は解説書で、現代語訳ではない。平易で軽やかな文体は、高校生を意識して書かれたものだろう。はるか昔の高校生にとっても快適だ。

 

 「第1節 とりあえず、男がいた」で基本を押える。

 「とりあえず、ビール」、物語の書き出しはそれに似て「(とりあえず)むかし、男ありけり」。成立に遡ると業平の存在は重要かも知れないが、時空から解き放たれた自由な存在の「男」を再び現実に呼び戻すことはないだろう。どんなに短い段でも必ず短歌が出てくると。

 

 「第2節 短歌は必修科目」で短歌を押える。これ以降、主要な段が取り上げられるが、ここでは「初段 初冠」。

 大人の仲間入りした若者が狩に出かけて美しい姉妹に一目ぼれする。当時の恋のステップではまず短歌を贈る。

  春日野の若紫のすり衣しのぶのみだれかぎり知られず

 若者は自分の狩衣の裾を切り取って短歌を書き付ける。ところで聞いたような歌、実は古今集の源融の

  みちのくのしのぶもじずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに

の借用。古歌をふまえた短歌を詠み、凝った紙(衣)に書きつけ女性に贈るなんて、いきなり恋の上級編。若者の胸は高鳴っただろう。姉妹のいずれに恋したか、結果は。それは想像におまかせだと。

 

 一読すると目の上の鱗が落ちる思いがする。
 言葉が現代とは異なるけれど、描かれる世界は実に人間臭くて、現代に生きる私たちの喜怒哀楽と共通することに気付かされる。
 高校生には、男女の機微や愛憎を深くは理解できないかも知れない、私だって多くを判りはしない。しかし、恋に恋する多感な一面は共振させられるだろう。現代は大らかな気持ちを失っているように思えるから。

 伊勢物語の根底にそれらが潜むのは当然だが、それらを顕在化させたのは著者の技量とセンスだ。「サラダ記念日」の、そして高校教師でもあった著者の。
 「とりあえず、ビール」が高校生に理解されるかは疑義が湧くけれど。

 

 注:上・下分冊は大活字本シリーズのため。底本は『ちくま文庫 恋する伊勢物語』である。

   (2011年3月8日記録)

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