2020年6月21日 (日)

謡曲「盛久」の道行

 鎌倉市長谷の由比ガ浜大通りに面して史跡「盛久頸座」があります。鎌倉青年団、鎌倉同人会による碑が建立され、謡曲史跡保存会の『謡曲「盛久」と由比ガ浜』の駒札も立てられています。近影ですが、駒札は褪せて不鮮明なので10年ほど前に撮影したものを添えておきます。
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 中世東海道の道筋を調べるために、謡曲「盛久」の道行を整理しました。作者は観世元雅、室町時代の人で世阿弥の長男です。

 まずあらすじ。
 源平の戦に敗れて囚われの身となった平盛久は、源頼朝の家臣・土屋三郎に護送されて鎌倉に下ることになります。二度と京に帰ることは無いと盛久は、長年信仰する清水寺の観音に最後になるであろう参拝を請い、土屋はこれを適えて鎌倉に向かいます。
 明日が処刑と知らされた盛久は、観音経を読誦して最後の祈りを捧げます。
 処刑に臨んだ盛久ですが、執行人の振上げた太刀が折れて命を永らえます。すぐさま頼朝に召された盛久は、暁に「観音の汝に代わるべし」との夢を見たと明かすと、頼朝も同じ夢を見たと明かします。盛久は、命を永らえたのは観音が起こした奇蹟と感涙に咽びます。頼朝は酒宴を催し、めでたい席に相応しい舞を所望します。颯爽と舞う盛久は、天下泰平を言祝ぎます。

 鎌倉に向かう途中で現れる地名は次のとおりです。
東山
清水寺   京都市東山
音羽山   京都市山科区の音羽山?
白川    京都の東より賀茂川に注ぐ川
松坂    粟田口から山科へ超える峠の西坂
四の宮河原 京都市山科区四宮、三条街道(東海道の道筋)
逢坂関   大津市大谷町
      これやこの行くも帰るも別れては 
        知るも知らぬもあふ坂の関 蝉丸
勢多長橋  近江の歌枕、瀬田唐橋
追蘇森   近江の歌枕、近江八幡市の奥石神社の社叢林
鏡山    近江の歌枕、竜王町
美濃尾張
熱田の浦  尾張の歌枕
鳴海潟   尾張の歌枕
八橋    三河の歌枕
      唐衣きつつなれにしつましあれば
        はるばるきぬる旅をしぞ思ふ 伊勢物語
高師山   近江の歌枕、愛知県豊橋市
潮見坂   浜名湖の西、静岡県湖西市
橋本    遠江の歌枕、浜名湖の南の宿、静岡県湖西市
浜名の橋  静岡県湖西市
小夜の中山 遠江の歌枕、静岡県掛川市
      年たけてまた越ゆべしと思ひきや
        命なりけり小夜の中山 西行
大井川   遠江の歌枕
宇津之山  駿河の歌枕、静岡県岡部
      駿河なる宇津の山べのうつつにも
        夢にも人に逢はぬなりけり 伊勢物語
清見潟   駿河の歌枕、静岡市清水
田子の浦  駿河の歌枕、駿河湾西沿岸
富士の嶺  時知らぬ山は富士の嶺いつとてか
        鹿の子まだらに雪のふるらむ 伊勢物語
箱根山
星月夜   鎌倉の歌枕、
      我ひとり鎌倉山を越へ行けば
        星月夜こそうれしかりけれ 後堀川百首
鎌倉

 ここで鎌倉山は、現在鎌倉山と云われる特定の山ではなく、広く鎌倉の山と思います。謡曲「六浦」に『~明け行く空も星月夜鎌倉山を越え過ぎて、六浦の里に着きにけり着きにけり』 の一節があります。もし土地勘があれば、この鎌倉山は六浦に接する朝比奈峠辺りを越えると察せられるでしょう。

 大森も『鎌倉山の星月夜などゝいふことが古書に見え、叉俗に鎌倉山はみな躑躅などいふ事もあるが、何れを指して鎌倉山といったに就ては、素より定まった説がない。ただ鎌倉に在る山々を指して云ったのであらう』(*1)と述べています。

 箱根以東をもう少し詳しく知りたいところですが、他もあたりましょう。

   1.「かまくら」 大森金五郎 大正14年7月25日元版発行

  (2020年6月21日記録)

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2020年4月19日 (日)

横浜の浦島太郎伝説

 かつて観福寿寺が、京急神奈川新町駅辺りの山手・横浜浦島が丘にありました。廃される時、浦島太郎伝説に関する事物は、七島町の蓮法寺と神奈川本町の慶雲寺に分けられました。

 横浜の浦島伝説は、逸失した「丹後国風土記」に伝わった内容と民間伝承が合わさったもののようです。「風土記」は、帰郷した丹後の人浦島が玉手箱を開けた結果、若さを失って老人と化すところで終わります。が後段の説明に、太郎は武蔵の出身であり、丹後から箱根峠まで玉手箱を開けずに保持していたとされます。

 観福寿寺に伝わった縁起は、丹後で老爺となった浦島が、父母の菩提を弔うために神奈川にやってきたことになっており、太郎は父母の墓のそばに庵を結び、姫から贈られた菩薩像(竜宮守護の本尊)を安置したとされます。

 慶雲寺は幕末にフランス領事館として使われた史実が残りますが、同時に浦島寺として知られます。境内の観音堂には、浦島観音と両脇に浦島太郎・乙姫像が祀られています。観音は亀の上に立ち、浦島は玉手箱を持っています。堂脇の石柱には、淳和天皇勅願所と刻まれ、脇に父・浦島太夫、子・浦島太良と刻まれています。
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 この観音堂は、いつ行っても閉ざされていて拝することが出来ないので、ある時寺の人に聞いたら子年開扉だと。5・6年前の事だったと思います。今年は子年、先日念願をかなえましたが折しもコロナ禍、開扉期間が短縮されてしまいました。次の子年を待って下さい。あるいは特別開扉があるでしょうか。

 蓮法寺の門前に亀の像、京急子安駅近くに埋められてしまいましたが浦島太郎の足洗川碑があります。  (2020年4月19日記録)
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2020年3月 2日 (月)

数値地形図について学ぼう!

最近は街歩きの頻度も減って、距離も短めになっているので体が鈍っています。雨の一日、少しでも回復のために合間合間にスクワット300回をやってみました。こればかしで役に立ちませんが徐々に。膝の曲げる角度でたまに痛みを感じましたが、それも解消しそうです。要は運動不足か。

頭も刺激しないと良くないので、19時から『Code for Yokohama シビックハックナイト 34回目「数値地形図について学ぼう!」』にオンライン参加しました。地理院地図などは毎日のように利用してありがたく思っています。しかし、新しいことに取り組まないのも良くないので、ヒントを頂けるかと期待しながら。

今日も添付図のような街歩き案内書の挿入図(写真)を制作していました。国土地理院地図にルートを書き込んでいますが、この元の航空写真はDSM=Digital Surface Model。すなわち樹木や建物の表面を表しています。この樹木や建物を人間が介在しながら取り除いたDEM=Digital Elavation Modelの説明がありました。DEMがあれば、航空写真に追記する手間も大分省けるわけです。ただし兵庫県のお仕事なので、兵庫県内のオープンデータは存在します。限られた他の行政にあるようですが、当面の私の興味は神奈川県あるいは横浜市ですから、合間見て探してみます。
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兵庫県も、結局7年ほど住みましたので、表示される三次元地形にさえ懐かしさを覚えました。もう昔のことですが、六甲全山縦走(写真)も二回完歩していますし、多少地理も分かるのでなおさらです。
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自宅にいながら会議に参加できるのは、若い方なら普通かも知れません。でもモデムでインターネット接続した世代ですから、隔世の感を感じます。新しい知識に触れられて感謝です。 (2020年3月2日記録)

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2020年2月22日 (土)

国土地理院地図の利用手続変更

 街歩きの案内書をまとめる際に地図の利用は不可欠ですが、知的所有権(制作者の権利)に抵触しないことに気を使います。個人的な楽しみですから、手続や費用発生は極力避けたいところです。

 

 いままで利用したくてもちょっと手を出しにくかった国土地理院の地図、抵触しない範囲を再確認しようとして国土地理院地図の利用手続変更 に気付きました。少なくとも私の想定する範囲内での制約はなくなったと思います。

 

 いままではOpenStreetMapを利用してきました。これからも利用しますが、選択範囲が増えたことになります。有り難いことです。

 

 願わくば行政および外郭団体が所有する歴史的写真などの利用もフリーになって欲しいものです。基本的に長作権保護期間の終えたものについて指しています。つたない文章を足する意味でも、その利用は有意義と考えます。ただ1点あたり何千円かを徴収されるのでは利用困難です。私的団体はともかく行政関係は改善されることを希望します。  (2020年2月22日記録)

 

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2018年11月24日 (土)

富士の山ビエンナーレ

 先日、「静岡県富士山世界遺産センター(https://mtfuji-whc.jp/)」と「駿河の国の芸術祭 富士の山ビエンナーレ(http://fujinoyama-biennale.com/)」を合わせて一周してきました。

 センターは富士山本宮浅間大社の門前に位置し、坂茂設計による富士山をイメージした外装になっています。螺旋スロープを昇りながら富士山の概要を知る仕組みですが、あくまで概要で深みはありません。昇り切った5階の壁面一面が開放状態で、正面に富士山が望めます。一番賑わっている場所です。写真は人が減った時に撮りました。
 館内ライブラリーの蔵書を確認したくて出かけたのですが、12~13時は閉鎖だそうで、何てこった。ガラス扉から覗きましたが、まだ書棚の3~40%が埋まっているだけでした。

 観光施設が一つ増えた印象ですが、誰もが富士山に登れる訳でもありませんから、それはそれで良いかも知れません。
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 ビエンナーレは、富士・富士川・由比の各駅付近が会場になっています。ただし富士と富士川の半分しか訪れませんでしたから、案内の受け売りが半分あります。

 展示は極めて小規模でした。富士駅付近では、使われていないビル・ビルの一角などを利用した作品展示でした。屋上の竹細工は、富士山を駆け上る龍を思わせて場所にマッチしていました。でもちょっと素っ気ない感じ、何か一味加わると良いと思いました。
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 余りにも富士山が美しいので、ビエンナーレを外れて興津・由比駅間の薩た峠を歩こうかと思いましたが、後半で日没になりそうなのであきらめて、富士駅から富士川駅までの旧東海道を歩いて、途中の会場に寄ることにしました。

 7年ぶりに富士川を徒歩で渡りました。って、橋の上ですが。
 富士川を渡ると間の宿・岩淵ですが、そこの本陣が会場でした。建屋を森に見立てたか、鳥の絵を描いた用紙の反対側に解説、解説の一文字一文字を切り抜いてあります。天井に何枚も吊るしてありますが、離れてるので細部が分かりません。座敷には、餌に見立てた切り抜いた紙片を皿に載せて於いてありました。土間に置かれた箪笥の開かれた引き出しには植物の切り抜きが。

 本陣は常盤家ですが、俳優・常盤貴子さんの実家だそうです。前回歩いた時は門が閉じていたので、初めて内部を見学できました。
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 後は近くの二会場を巡って時間切れ。全体の半分を見残した感じです。
 今まで訪れたビエンナーレ・トリエンナーレ形式の芸術祭では最も小規模でした。でも芸術を足がかりにした町興しにはなるべく足を向けたい思いを抱いています。

 町興しと言えば、富士駅近くのかつての酒屋さんがお休み所になっていましたが、内装を意図していた訳でもないでしょうが、お酒の木製掛け看板の連なりが美しく、付近の工場の勤め人が帰りがけに立ち飲みしたであろうカウンターも年季が入っています。普段は閉じているようです。芸術化された日常生活に芸術は優るのでしょうか。

(2018年11月24日記録)

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2018年11月 9日 (金)

太田道灌が陣取った亀の甲山

 子供の頃、祖母や父に連れられて小机の遠縁を訪れることがあったので、小机城や亀の甲山の名前は既知でした。平らな所は田んぼでしたが、半世紀余りの間に第三京浜、東海道新幹線や新横浜駅、横浜国際総合競技場などが建設されて激変しました。
 暫く前から付近を歩きまわっていますが、今回は亀の甲山のことを。と言っても余り話題もないのですが。

Photo_5  小机城はJR横浜線小机駅の北に位置します。築城年代も定かでありませんが、歴史に一度だけ登場します。

 長尾景春は関東管領上杉氏の有力家臣、自らの処遇に不満を抱いて反乱を起こします。1476(文明8)年から1480(文明12)年にまで及んだことです。

 豊嶋氏は景春に味方して、1478(文明10)年、小机城に立て籠もります。太田道灌の軍勢が対峙、鶴見川を挟んだ亀の甲山に陣を構えます。攻防を繰り返すこと2カ月余り、堅固を誇る小机城も遂に落城します。

Photo_6  亀の甲山は横浜国際綜合競技場の北に位置します。今は鶴見川の遊水地が目の前に広がり、高速道路が左右に延び、山裾を建屋が取り囲んでいます。それだけでなく山の上は小規模な工業団地になっています。往時を思わせるものは何もありません。

Photo_7  何もない所も歩き回るのが私の街歩き、そこに何かが見つかればなお良し。想像の助けに付近の地形を描画して添えておきます。両陣の距離は直線で1.3km程、お互いに相手の動きは見えたことでしょう。川を挟む布陣は奇襲攻撃を避けるためでしょうか。  (2018年11月8日記録)

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2018年11月 6日 (火)

街角から、「ふつうの国」とは

 横須賀市内を旧浦賀道に沿って歩いて、気になる駒札を見つけました。内容は次のとおりです。

 『東京湾要塞地帯標
 「東京湾要塞地帯第壱区」と刻まれた石標は大正十三年(一九二四)に旧陸軍省によって建てられたものです。
 明治政府により首都が東京に移されると東京湾防備が一層重要となりました。明治三二年 (一八九九)要塞地帯法が公布され三浦半島は全域が要塞地帯に指定されました。軍施設を基点に第一区~三区に分け建物や設備の形状変更などを許可制にしました。
 同時に軍機保護法が公布され写生や写真撮影及び軍施設への立入り等が許可制となり、漁の禁止や制限がされました。特に砲台が集中する走水では一般道路も自由に通行が出来なくなりました。
   大津行政センター市民共働事業・大津探訪くらぶ』
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 尾根道から、横須賀港や長浦港に停泊する艦船を写真に収めていて、世が世ならば捕まってしまうだろうと思います。駒札から、そのような思いが事実であろうと推測できます。

 駒札に書かれた石標は付近に見当りませんでしたが、逸見辺りで確認できました。民家の玄関先に建っていました。探せばもっと残っているように思っています。旧浦賀道を外れないとだめでしょう。
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 旧浦賀道は追浜付近で旧武相国境と直角に交差します。旧武相国境の東端部はほぼ横須賀市と横浜市の境界に沿っています。16号線から西に丘上に上った所の石票に『横須賀軍港境(界)』と刻んであります。「界」の字は埋もれていますが。そこから大分歩いた米軍池子住宅地区北側に『海軍』と刻まれた石標が幾本か見つかります。米軍に接収される以前は「旧日本海軍の航空廠補給部池子工場(逗子市域)と工廠造兵部谷戸田注填場(横浜市域)」でしたからその名残でしょう。
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  街歩きのフォローのために時々、近所の図書館に出向いて明治期の地図を確認します。そこに捺印されている「軍事機密」のスタンプ。
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  アジア太平洋戦争の敗戦による終結からでも70年余が過ぎています。街中の記憶は減る一方ですが、今に残るものから往時を思ってみるのも意義あることと思います。「ふつうの国」は世の動きで変化するでしょう。どのような状態を普通の国と言うか、しっかり考えておかないと。彼我で異なる訳ですから。

 最後に、軍艦が見えますがいまは長閑な長浦港。
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  (2018年11月6日記録)

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2018年11月 4日 (日)

古道について

 街歩き、今回は古道について思うところをまとめてみました。

 古道の特徴(*1)を列記します。
  1.障害があれば迂回するので局部的には迂余曲折
  2.局部的に迂余曲折するが大観するとほぼ一直線
  3.道の傍の清水や苗所の古井戸は旅人の憩いの場
  4.路傍・岐路に道標を兼ねる道祖神・庚申塔など
  5.薬研堀とかいわれる踏まれて深く切り込んだ路

 池・川・田畑などは迂回しますが、遠くの山などを目標にほぼ一直線に進みます。例えば武相国境を金沢方面に向かい、横浜市域に入って野境道路(瀬谷区)を過ぎると、やがて家並の切れ目で円海山(磯子区)が視界に入ります。円海山を過ぎて鎌倉に向かうたたら道をなお進むと、やがて東京湾に浮かぶ野島(金沢区)が見えてきます。昔の旅人は、一つ先一つ先の目標を見定めて歩を進めたことでしょう。

 生活様式の変化で埋め戻された井戸は多いと思いますが、今に残る名の付いた井戸もあります。例えば旧東海道保土ヶ谷宿中程から金沢に向かう金沢道沿に(北条)政子の井(保土ヶ谷区)、鰻井戸(港南区)が見つかります。鎌倉十井のいくつかは街道沿いにありますが、門前にある井戸さえ、結局は旅人の喉を潤したことでしょう。

 切通と思えない場所でのU字型地形は薬研堀で、往古より行き交う旅人の歩みが少しづつ大地を削った証です。意外な場所で見かける道祖神は、その辺りが旅人の行き交った道筋であったことを物語ります。

 家並の中に古い時代の痕跡を見つけることが少なくありません。実証の難しいものもありますが、正史に記録されない世俗の歴史を垣間見るのは、街歩きの醍醐味の一つと感じます。

  *1 武州久良岐郡地名考 武内廣吉著、まほろば書房 を参考にして要約

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2018年8月27日 (月)

横浜久保山の土佐藩官修墓地

 横浜市営久保山墓地の一画にある土佐藩官修墓地が見つかりましたので、ご紹介しておきます。先にご紹介した長州藩官修墓地と性格は同じですが、1m×2mほどの敷地に7名の墓碑が重なるように建立されています。一番手前の墓碑側面に『被銃創六月七日死於横濱大病院』と刻まれています。

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 案内は次のとおり記載されています。

『官修墓地

慶応3年(1867)に行われた大政奉還によって起こった討幕派と旧幕府軍の戦い、戊辰戦争(慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦いから明治2年 (1869)5月18日の五稜郭の戦いまで)は、数多くの負傷者を出しました。当時の日本医学は銃創を治療する技術が未熟であったため、官軍藩士の負傷者を治療するため、野毛町林光寺下の修文館に慶応4年4月17日、横浜軍陣病院を開設し、イギリス公使館の医官ウイルスが治療にあたりました。鳥羽・伏見、箱根、奥州棚倉、白河、会津若松、今市など各地の戦いで負傷し、軍陣病院に入院した藩士たちのうち56名が他界しました。長州藩と土佐藩では、14名の藩士たちを西戸部の大聖院に葬りました。
 明治7年7月、久保山に共葬墓地が設けられ、大聖院の墓地が改葬された折、この地に移葬されました。官修墓地と呼ばれ、6区に長州藩士、19区に土佐藩士が葬られ、18区には西南戦争(1877)で戦士した兵士や巡査が葬られています。
 横浜軍陣行院は、6ヶ月余で閉鎖され東京府大病院(後の東京大学付属病院)として拡大され、日本の近代医学の先導的役目を果たしました。

横浜市教育委員会文化財課
社団法人 横浜国際観光協会
平成6年3月』

 先にご紹介した長州藩官修墓地と性格は同じですが、ちょっと窮屈な場所という印象が強いです。
 もう一つの官修墓地、西南の役の人たちの墓碑が見つかりません。また探してみます。歴史ですから。

   (2018年8月27日記録)

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2018年8月25日 (土)

横浜の史跡と名勝『40.久保山官修墓地』

 横浜市営久保山墓地の一角に長州藩官修墓地があります。どのような性格の墓地かは案内の碑文で知れます。

『長州藩官修墓地
 慶応三年(一八六七年)におこなわれた大政奉還によって起った戊辰戦争(一八六八年)は日本を混乱の渦に巻き込んだ。
 この戦いにより数多くの戦士が傷つき斃れたが、当時の日本医学は銃創を治療する技術が貧弱で、官軍の負傷者は横浜に送られイギリス人医師ウィリアム・ウィリスが野毛(後に大田陣屋内に移転)に解説された横浜軍陣病院(後の東京大学付属病院)で治療した。
 しかし、不幸にも亡くなった者は明治七年七月に久保山共葬墓地が定められた時ここに移送された。
 この墓は長州藩士のもので墓碑を見れば奥州白河、棚倉、若松などの戦いで負傷したことがわかる。
 この官修墓地以前神奈川県が管理していたが、ほとんど無縁のままの状態で荒廃していたため、この度旅西区観光協会並びに山口県においてその整備が行われた。
                            昭和五十六年三月
                            西区観光協会
                            山口県』

 戦士の墓碑は7基ありますが、背面の経歴で「鳥羽之役」「小田原之役」で負傷した者もいると知れます。
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 久保山墓地には、他に土佐藩と西南之役の官修墓地はがあるようです。異境の地で永眠する人のいることを多くの人に知って頂きたいと思います。最寄駅は相鉄線西横浜駅、ほぼ南に向かって久保山墓地に入り、島茶屋の前を道なりに上ると案内があります。途中で保土ヶ谷道を横切ります。

   (2018年8月24日記録)

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