2022年5月 5日 (木)

東海道と開港場を結んだ横浜道

 1858年に結ばれた日米修好通商条約は、神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市、通商は自由貿易とされています。

 ここで神奈川とは東海道神奈川宿周辺と捉えられ、各国は周辺に領事館や公使館を設置します。しかし幕府は人の往来の激しい街道筋に外国人が居住して事件が発生することを恐れます。各国と調停不調のままに約束の期限の3カ月前に、独断で辺鄙な横濱村を開港場と決定します。

 準備は多々ありますが、東海道筋と開港場を如何に結ぶかも大きな課題でした。そこで埋立地の先端を結ぶ横濱道を造成することにします。

 現横浜駅西口の西数100mを通過し、現在も辿れます。往時の様子は五雲亭貞秀の横浜絵で窺えます。変り様を比較するのも興味深いと思います。

  武相二万歩ホームページ

  #四次元的路上観察 #武相二万歩 #横浜 #横浜道 #神奈川 

 

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2022年4月29日 (金)

鎌倉道中道(新橋~上柏尾)

 鎌倉道中道の新橋(いたち川)から上柏尾(国道1号)までの中間まとめです。距離は約8.5km、小高い丘の尾根道の筈で、それらしい道筋が残ります。しかし大規模開発による団地内を進むことも少なくありません。
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 いたち川は相武尾根の西側に端を発し、大船の北側で柏尾川に合流します。「出で立ち川」の転訛とも云われ、鎌倉の北の外れです。鎌倉道中道は新橋(にいばし)で川を超えますが、北詰で戸塚方面(西浦賀道)と弘明寺方面(鎌倉道)に分かれます。
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 吾妻鏡に「七瀬の祓」が何度か記録されています。元は朝廷の公事の一つで、天皇の災禍を負わせた人形を、勅使七人が七カ所の瀬に持参、祓をして流します。鎌倉幕府も準じて行ないますが、その一カ所がいたち川です。

 また鎌倉年中行事に「公方様御発向」が記録されています。1416(応永23)年、上杉禅秀の乱を鎮めるために足利持氏は出立します。吉日を選び、いたち川に至って昼休み、吉例により「御酒三献御湯漬參」、装束を改めます。御酒三献とは神式の結婚式の三々九度に残りますが、祝宴を行ったということでしょう。装束改めは、威儀を正して進んできて、ここで旅装に変えたということでしょう。

 證菩提寺は新橋の少し上流側、石橋山の戦いで源頼朝の身代わりで戦死した佐奈田与一の菩提を弔うため、頼朝建立と伝わります。
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 上柏尾で中道と旧東海道が交差します。付近の王子神社は、ご由緒に護良親王の御首を本殿下に埋葬したとあり、近くに首洗い井戸もあります。
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 途中の史跡は追ってまとめます。鎌倉道は鎌倉に近付く方向で歩くのが筋だと思います。いずれ一気に。

参考 「全譯吾妻鏡」 永原慶二 新人物往来社
   「群書類従・第二十二輯」 塙保己一 平凡社
   「轍 Wadachi ソフトウェア 公式サイト」

  (2022年4月29日記録)

  #四次元的路上観察 #武相二万歩 #大鎌倉 #鎌倉道 #中道 #いたち川 

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2022年4月 3日 (日)

金沢権現山公園(円通寺客殿)

 相模国鎌倉郡渡内村(現藤沢市)の名主・福原高峰は、江戸時代末の1839(天保10)年に「相中留恩記略」がを編纂します。相中とは相模国を指しますが、武蔵国金沢(現横浜市)の、御宮、瀬戸明神者、瀬戸橋、竜源寺、塩焼場、名主団右衛門、称名寺、能見堂に言及します。

 御宮についての言及を抜粋すれば、『御宮は社家分村の内、小名引越にある円通寺の境内、岩山に祀り奉る。万治年中、八木次郎右衛門殿、此辺の代官たりし時、岩を切り開き勧請し奉り、御供料七石を寄附し奉りといふ。・・・・・・円通寺は天台宗にて、江戸浅草東光院の末、日輪山と号す。開山高栄は寛文二年二月遷化す。御別当なり。』となります。

 御宮とは東照宮のこと。この地に東照宮が祀られるようになった経緯は定かでないようです。しかしながら徳川家康が関が原の戦い直前の1600(慶長5)年、大阪から江戸に戻る途中、後に金沢八景と称される景勝の地・金沢を遊覧して景色を気に入り、大御所になってからも駿府から江戸に赴く際には金沢に立ち寄ったと云われます。

 円通寺は別当寺で、その客殿は御宮を詣でる上客を迎える建物として利用されたと考えられています。「げんかん」「げんかんざしき」「おくざしき」「ひろま」といった接客用の場を南側に、「だいどころ」など生活の場を北側にまとめています。華美にはしらず、落ち着いた空間にまとめられています。
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 建築年代についての確かな資料はないようですが、様式・技法から江戸時代後期か末期と推定できるようです。

 客殿の前から高見に上ると、現休憩デッキ付近に「御宮」があり、その前に急な階段が配置されていたようです。
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 円通寺客殿の背後の山を権現山、それに続く御伊勢山と云いますが、フェンスで閉ざされていて通行不能です。南側の上行寺辺りから入ることになります。以前に入ったときは小径が付いている程度で、所々に何かがあるような状態でしたが、詳しく調べていません。いずれ変化しているか否かを観察に行ってみます。
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 京浜急行金沢八景駅西側、高架駅舎の西側階段を下りる途中から公園に接続しています。駅から徒歩一分。見学は無料、管理休憩等に自販機・公衆トイレがあります。
 長いこと修復・整備事業を実施していましたが、2022年4月2日から公開されています。

#武相二万歩 #大鎌倉 #武蔵 #六浦 #金沢 #権現山 #円通寺 #相中留恩記略

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2022年3月21日 (月)

BankART KAIKO「都市デザイン横浜展」鑑賞、影は?

 良く街歩きするので、この企画展で取り上げられた現地の様子はある程度承知しています。総じて光の部分が取り上げられ、影の部分の言及はありません。ここで云う影とは、抽象的な影であり実際の影です。
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 会場中央に横浜市中心部のジオラマが据えられています。豆粒ほどの自宅が確認できるほど丁寧に作り込んだものです。何代もこの地で生活してきて、勝手に中心部になった感じはあります。かつて横浜湾奧にあった三菱
造船所が移設、その跡にみなとみらい地区が開発されて、中心部に躍り出た訳です。この辺りは東海道線沿線の住宅密集地で、造船所に通勤する人たちで賑わう小さな飲食店なども連なっていました。
 何時の頃だったか用途地域指定変更で中層ビルが建ち始め、個人と資本が入り混じるようになりました。今は空地も目立ち、企業買い占めの印象があります。個人商店は徐々に店じまい、住民の老齢化も進んで限界集落の様相を呈しています。地域共同体は継続できるのか、これは抽象的な影です。
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 実際の影とは。最近、高層ビルの作り出す影の多い街になったとの思いを強くしています。
 例えば、旧横浜市庁舎跡に180mだかの高層ビルが建つようです。写真にビルの高さを推定して白線で追記していますが、写真上端をさらにはみ出します。冬至の太陽南中高度は30度少々ですから影は240mほどで横浜公園を被うでしょう。公園の花壇・遊び場から見てビルの位置は西南西で、午後の遅くに影が延びて夕方が早く来るようなものでしょう。ビルは敷地の南側に建つようで、北側の関内駅との間は広場にでもなるのでしょうが、日当たりは確保、影は敷地外でしょうね。旧市庁舎も殆ど影にならないでしょう。
 ベイスタジアムも、コロナに打ち勝った証のスタンド増設、ほとんど利用されないデッキ建設で殺風景になりました。
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 企画展の一部あるいは全部の写真は、周囲の様子で今冬の、影の延び具合から昼過ぎに撮影したことでしょう。写真にビルの影を白線で枠取りしました。随分長く、そして人々が憩う部分を被います。
 現在、赤レンガ倉庫の西側に、地上7階・高さ35m強の(仮称)横浜地方合同庁舎を建設中です。赤レンガ倉庫広場に影が届くでしょう。それだけでなく、万国橋から赤レンガ倉庫方面への景観を潰します。
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 観光客や市民の憩いの場を影で覆ったり、景観をぶち壊してどうするの。カジノ計画中止は良いとして、時に何もしないことも重要ですが、政治・行政は何かすることが、強いて言えば金をつかうのが好きなようです。人口減は避けられませんし、我慢できるものは我慢する。良い未来のために重要でしょう。

  (2022年3月21日記録)

 

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2021年3月 9日 (火)

中国映画「春江水暖」@シネマ・ジャック&ベティ 3月3・5日

 中国の大河・長江(下流部は揚子江)の南側が江南、杜牧の四權絶句「江南春」から、風光明媚にして深い歴史を秘めた土地と知れます。

 

 江南を貫く富春江は、河・江には及びませんが長さ500kmほどで大河と云えます。沿岸に大都会・杭州市が位置し、映画の舞台となる富陽区は地下鉄で30分ほど離れています。都市化の波で高騰する住宅事情が庶民を苦しめます。

 

 富陽に住む四人兄弟を中心とする三代の大家族。老母は古希の祝いの席で脳卒中に倒れ、後の生活に困難が生じます。長男は料理店を経営し、次男は漁師を生業とし、三男はダウン症の息子を育てながら無職で借金まみれ、四男は母の愛を一身に受けつつ取り壊し現場で働きます。

 長男の娘・グーシーは、親の思惑とは裏腹に安月給の教師・ジャンとの結婚を望んでいます。次男は息子に、居住マンションの立退料で新居を買うつもりです。

 

 恐らく誰もが想像できる家庭的・社会的問題が起こります。多くの人にとっても身近な問題です。社会で考えなけらばならない大きな課題かも知れません。

 

 映画の魅力は登場する俳優、と言うより監督の親族・知人をキャスティングした素人たちです。不自然さは感じられません。監督・脚本のグー・シャオガンは、美しい四季の景色の中、4年をかけて一つ一つの出来事を丁寧に描きます。

 

 長回しで川面を水平移動するカメラ・ワークが深く心に残ります。

例えば、グーシーが川沿いの道を歩き、ジャンは泳いで水から上がり、二人でフェリーを操船するジャンの父親に会いに行く数分が1カット。例えば、供養で川に魚を放つ長男夫婦、パンして丘の中腹を進む釣り人を追い、先端に来ると大きな川に出て大きな船を追う数分が1カット。

 

 春、母の墓参り。グーシーが倒れた後の祖母に手渡したノートを四男が読み上げます。母が富陽に嫁いだころの記憶が鮮やかに書き留められています。

グーシーは母に寄り添い、ジャンは義父の「昔はもっと苦労があって結ばれた」話を聞きながら山を下ります。

 

 経済至上主義で庶民に降りかかる問題は国を問わず、異なるのは国の体制や為政者の主義主張と感じさせられます。これが中国で制作されたとは。

 

 「春江水暖」とは、蘇軾の七言絶句「恵崇春江暁景二首 其一」の第二句「春江水暖鴨先知」から取られています。いずれ続編ができるようで待ち遠しい。 

   (2021年3月9日記録)   

公式サイト

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2020年11月 2日 (月)

鎌倉道上道、下飯田から瀬谷まで

鎌倉道上道の4区間目、横浜市営地下鉄下飯田駅から相鉄線瀬谷駅までを歩きました。現在は横浜市になっていますが、旧鎌倉郡をまだ抜け出していません。

鎌倉の鶴岡八幡宮を起点にして3回で歩く予定でしたが、1回余計になりました。毎度歩き始める時間が遅いこと、予定が狂うと最寄り駅が離れてアプローチが長くなることに寄ります。
とりあえず瀬谷到着ですが、追ってもう少し北まで進もうと思っています。それと全体を何回か繰り返して寄り道ルート、興味ある場所を探そうとも思っています。

20201029_1576 上飯田の飯田神社は、主神を左馬頭源義朝とするサバ神社です。飯田神社は紛らわしいと思うのですが、何か理由があるのでしょうか。神社前に庚申塔の類がたくさん並んでいます。これほど多いのは珍しく思います。周辺の区画整理や道路工事のために移動したものもあるかも知れません。

20201029_1589 同じく上飯田の本興寺、本堂唐破風下の彫刻は見事でした。木彫と云うと、富山県南砺市井波町を思い出します。何度か街中を散策すると、店先で作業をしていました。この寺の彫刻がどこで造られたかは知りませんが。

20201029_1595 上飯田はまだ続きますが、柳明古地図を見ていたら、右下に「新田義貞公進軍の道」と記されていて、鎌倉道を歩いていることを再確認しました。鎌倉に向かうから鎌倉道なので、逆方向にあるいているので何道を歩いているんだか。

20201029_1608 この少し先の道筋は古道らしい雰囲気を醸し出しています。何処がと問われても答えにくいのですが、地形に沿って緩やかに蛇行する幅一間ほどの道としか言いようがありません。右側に川があるので、柵はしかたありません。人工的に造られた道は一直線です。

20201029_1634 瀬谷駅南口を出て大和方面に進んだ交差点の一角に「世野の原の鷹見塚」がありました。案内が無ければ残土が積みあがっていると思ったでしょう。周囲はお鷹場で、この塚は相模国四郡の総指揮所だったとのこと。幕末まで続いていたそうです。草が茂っていたので上る気も起きませんでしたが、冬枯れのころに上ってみたいです。見えるのは建物ばかりでしょうが。

  (2020年11月2日記録)

#鎌倉道 #上道

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2020年9月 2日 (水)

千駄ヶ谷のコレアン(Korean)

Photo_20200902224201  昨日の東京新聞朝刊の筆洗は、日本の現代演劇に偉大な足跡を残した千田是也の名前の謂れに触れています。縁起の良い名前にも見えるが、そこに隠れているのは傷ついた記憶、関東大震災後の朝鮮人虐殺事件です。

 新聞の内容は限られますが、本人の文書から掻い摘んで。
 震災後に朝鮮人の襲撃があるとのうわさが飛び交い、自警団が編成される。集団に合流できず一人で歩いていた時、朝鮮人に間違えられてもうダメだと覚悟するまで追い詰められた時、知り合いがいて救われる。
 後に震災の混乱を利用して、階級的対立を民族的対立にすり替え、大衆の不満をそらそうとして流されたデマが根源にあると知って愕然とする。その自戒をこめて、センダ・コレヤつまり「千駄ヶ谷のコレアン(Korean)」という芸名を付ける。

 ちくま文庫「関東大震災の直後 朝鮮人と日本人」中の「文化人らの証言 その後の回想」の章に掲載されている。他にも有名無名の人たちの文書が掲載されているが、例えば志賀直哉、秋田雨雀、芥川龍之介など。

 市井の人たちが集団で分別を欠く恐ろしさに暗澹とさせられる。その場に立った時、自分ならどうするか、どうしたか深く考えさせられる。

  (2020年9月2日記録)

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2020年8月31日 (月)

袖すり山(四次元的路上観察「高島台を辿る」より)

 旧東海道神奈川宿・保土ヶ谷宿間は、深く湾入する入江と迫る丘の間を進みます。入江は着物の袖のような形をしているので袖ヶ浦、中間辺りの丘は袖すり山(現浅間台みはらし公園)と呼びます。
 袖ケ浦は江戸時代中頃から明治時代に埋立てられ、今は痕跡すら残りません。袖すり山には、源頼朝勧請と伝わる浅間神社が造営されて今に続きます。ただし江戸名所図会で人穴社とも云われた浅間神社周辺は住宅が密集、人穴も現存しないようです。ちなみに人穴は古代の横穴墓で、周辺に20基ほど存在したようです。

 五雲亭貞秀「東海道神奈川台臺并かるい沢ヨリ横濱海岸町同本町横濱木村を見渡其海面数万の大舩を見る圖ナリ(*1)」は、神奈川宿と保土ヶ谷宿間から開港場方面の様子描いています。左手の崖の向こうが神奈川宿、坂は神奈川台(現神奈川台町)西側、下り切った辺りが神奈川宿の西外れです。坂は随分急に見えますが、今は自動車が通行するために緩やかです。
 江戸を発って西に向かう旅人の多くは最初の泊りが保土ヶ谷宿、海岸沿いの平坦な道を30㎞ほど進んで、最後近くに難所神奈川台を超えます。袖ケ浦の風光明媚な景色が疲れを癒したことでしょう。
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 図に地名のいくつかを追記しました。右下に芝生村、横浜道入口とありますが、現浅間下交差点付近、第三京浜道路三ツ沢料金所から桜木町方面に向かって丘を下り切った所になります。左下に人穴山がありますが、これは江戸名所図会にも描かれた浅間神社の横穴墓です。

 これらの情報を総合すると、この絵が描かれたのは袖すり山東側と推定できます。

 公園から見られる現在の光景が次の写真です。残念ながら公園東側は私有地で立ち入れません。さらに樹木の繁茂が景色を遮っています。
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 特徴ある地形や建物から、貞秀の絵と写真の画角を推定したのが次の図(*2)です。概ね重なります。既に袖すり山から描かれたと言ってしまいましたが、さほど矛盾はないと思います。
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 絵が描かれたのは1860(万延元)年頃ですから、160年の歳月の隔たりが感じられるのではないでしょうか。

  出典:1.国立国会図書館デジタルコレクション
     2.国土地理院地図に加筆

  (2020年8月31日現在)

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2020年8月30日 (日)

鎌倉の護良親王史跡・旧跡

 最近知ったのですが、柏尾通り大山道近くに護良親王首洗い井戸があり、近くの天王社の祭神は親王で本殿地下に首が埋められているとのこと。既に知ることとして、護良親王陵が鎌倉二階堂にあり、親王の墓が松葉が谷妙法寺にあります。

 知ると云っても上っ面ですが、史跡・旧跡が三カ所もあるので気になりました。少しづつ調べようかと。まずは現地確認ですが、初めて訪れるわけでもありません。意識しているのとないのでは見方も違うかと。

 護良親王は後醍醐天皇の第三王子と云われますが、第一王子との異説もあるようです。足利尊氏と対立、捉えられて鎌倉に送られ、東光寺(廃寺)の土楼に幽閉され、後に斬殺されます。鎌倉宮は東光寺の跡に、明治二年に創建されました。本殿背後に土牢はあります。しかし幽閉されたのは塗籠牢、即ち室の内側を土で塗った所とも云われます。
 写真は拝殿・本殿、土楼、斬首された首が置かれた御首塚。
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 首は理智光寺(廃寺)の住僧によって葬られたそうですが、それが護良親王陵になるのでしょう。陵ですから宮内庁管理ですが、昨秋の台風でがけ崩れがあり、奥までは進めませんでした。
 写真は陵碑、最初の踊り場にある通行止め案内、以前撮影した陵。
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 この後、松葉が谷に向かったのですが、道の選択を誤ったりして疲れ果て、妙法寺は後日として鎌倉駅に戻りました。距離8㎞ほど、それで疲れては街歩きにならないのですが、暑さのせいもあるということにしておきます。

 余談ですが、二階堂から浄妙寺、報国寺、巡礼古道経由で妙法寺のつもりでしたが、報国寺は浴衣を着た女性など、結構な人がいたように思います。それまでと随分違いました。ひところよりは人手が多いように感じました。

  (2020年8月29日記録)

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2020年6月21日 (日)

謡曲「盛久」の道行

 鎌倉市長谷の由比ガ浜大通りに面して史跡「盛久頸座」があります。鎌倉青年団、鎌倉同人会による碑が建立され、謡曲史跡保存会の『謡曲「盛久」と由比ガ浜』の駒札も立てられています。近影ですが、駒札は褪せて不鮮明なので10年ほど前に撮影したものを添えておきます。
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 中世東海道の道筋を調べるために、謡曲「盛久」の道行を整理しました。作者は観世元雅、室町時代の人で世阿弥の長男です。

 まずあらすじ。
 源平の戦に敗れて囚われの身となった平盛久は、源頼朝の家臣・土屋三郎に護送されて鎌倉に下ることになります。二度と京に帰ることは無いと盛久は、長年信仰する清水寺の観音に最後になるであろう参拝を請い、土屋はこれを適えて鎌倉に向かいます。
 明日が処刑と知らされた盛久は、観音経を読誦して最後の祈りを捧げます。
 処刑に臨んだ盛久ですが、執行人の振上げた太刀が折れて命を永らえます。すぐさま頼朝に召された盛久は、暁に「観音の汝に代わるべし」との夢を見たと明かすと、頼朝も同じ夢を見たと明かします。盛久は、命を永らえたのは観音が起こした奇蹟と感涙に咽びます。頼朝は酒宴を催し、めでたい席に相応しい舞を所望します。颯爽と舞う盛久は、天下泰平を言祝ぎます。

 鎌倉に向かう途中で現れる地名は次のとおりです。
東山
清水寺   京都市東山
音羽山   京都市山科区の音羽山?
白川    京都の東より賀茂川に注ぐ川
松坂    粟田口から山科へ超える峠の西坂
四の宮河原 京都市山科区四宮、三条街道(東海道の道筋)
逢坂関   大津市大谷町
      これやこの行くも帰るも別れては 
        知るも知らぬもあふ坂の関 蝉丸
勢多長橋  近江の歌枕、瀬田唐橋
追蘇森   近江の歌枕、近江八幡市の奥石神社の社叢林
鏡山    近江の歌枕、竜王町
美濃尾張
熱田の浦  尾張の歌枕
鳴海潟   尾張の歌枕
八橋    三河の歌枕
      唐衣きつつなれにしつましあれば
        はるばるきぬる旅をしぞ思ふ 伊勢物語
高師山   近江の歌枕、愛知県豊橋市
潮見坂   浜名湖の西、静岡県湖西市
橋本    遠江の歌枕、浜名湖の南の宿、静岡県湖西市
浜名の橋  静岡県湖西市
小夜の中山 遠江の歌枕、静岡県掛川市
      年たけてまた越ゆべしと思ひきや
        命なりけり小夜の中山 西行
大井川   遠江の歌枕
宇津之山  駿河の歌枕、静岡県岡部
      駿河なる宇津の山べのうつつにも
        夢にも人に逢はぬなりけり 伊勢物語
清見潟   駿河の歌枕、静岡市清水
田子の浦  駿河の歌枕、駿河湾西沿岸
富士の嶺  時知らぬ山は富士の嶺いつとてか
        鹿の子まだらに雪のふるらむ 伊勢物語
箱根山
星月夜   鎌倉の歌枕、
      我ひとり鎌倉山を越へ行けば
        星月夜こそうれしかりけれ 後堀川百首
鎌倉

 ここで鎌倉山は、現在鎌倉山と云われる特定の山ではなく、広く鎌倉の山と思います。謡曲「六浦」に『~明け行く空も星月夜鎌倉山を越え過ぎて、六浦の里に着きにけり着きにけり』 の一節があります。もし土地勘があれば、この鎌倉山は六浦に接する朝比奈峠辺りを越えると察せられるでしょう。

 大森も『鎌倉山の星月夜などゝいふことが古書に見え、叉俗に鎌倉山はみな躑躅などいふ事もあるが、何れを指して鎌倉山といったに就ては、素より定まった説がない。ただ鎌倉に在る山々を指して云ったのであらう』(*1)と述べています。

 箱根以東をもう少し詳しく知りたいところですが、他もあたりましょう。

   1.「かまくら」 大森金五郎 大正14年7月25日元版発行

  (2020年6月21日記録)

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