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2022年8月 7日 (日)

茅ケ崎南湖院あるいは炮術調練場

 茅ケ崎市西部の海岸近くに、かつて東洋一と云われたサナトリュム(結核療養所):南湖院がありました。現在、第一病舎(案内文面は末尾に)のみが保存されています。「南湖院平面図」を一見すると、その広大さを実感できます。

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 画家・萬鉄五郎は神経症と結核の療養のために、1919(大正8)年、茅ヶ崎に転居します。1年ほどして健康を取り戻した萬は、周辺を描いた「水着姿」「南湖院」「茅ケ崎海岸(鳥居と母船)」などを残しています。愛すべき萬の作品ですが、当時の周辺の様子を留めていることも貴重です。路上観察に往時の作品はとても参考になります。

 かつて片瀬川と相模(川)の間は,引地川の東側を砥上ヶ原、西側を八松ヶ原と呼ばれる草原でした。現在の藤沢市鵠沼海岸を中心とする辺りに比定されます。この草原は江戸時代中頃の享保13年、幕府の炮術調練場(鉄砲場)に指定され、大砲(大筒)の射撃訓練が行われます。訓練には次のような種類があったようです。
  ・町打 -遠距離射撃訓練で、辻堂村から柳島村方面に発射されたという
  ・角打 -近距離射撃訓練で命中率が問われ、鵠沼村で行われたらしい
  ・船打 -三百石積船に載せた大筒の射撃訓練で、六人が乗り組んだ
  ・下ヶ矢-高所からの射撃訓練で、駒立山(片瀬丘陵北側)から鵠沼村に発射された

   付近の開発は少しづつ進んだようですが、明治以降は炮術調練場を日本国海軍が利用します。第二次世界大戦前後の様子は第一描写案内も触れています。萬の描いた風景には、まだまだ開発前の様子が留められていると思って良いでしょう。

『国登録有形文化財(建造物)
旧南湖院第一病舎
 明治三十二(一八九九)年、医師・高田畊安によって設立された結核療養所「南湖院」。母の名を冠して竹子室と命名された第一病舎から始まり、最盛期には約五万坪の敷地の中に十四の病舎や測候所などが点在し、「東洋一のサナトリウム」と謳われました。最初の入院患者の勝海舟夫人や国木田独歩、八木重吉らが療養するなど、多くの著名人が療養や見舞いに訪れています。
 その後、昭和二十(一九四五)年、米軍の茅ヶ崎海岸上陸を想定した日本海軍の接収により、南湖院は、結核療養所としての歴史に幕を閉ざすこととなりました。翌年、米軍に接収されキャンプ・チガサキとなり、接収解除後は海水浴客のキャンプ場などとして利用されながら今日まで受け継がれてきました。
 第一病舎の建物は、採光通風に配慮されており、北面に切妻屋根の玄関、西面に階段室が設けられています。明治建築らしい下見板張塗装仕上げで、縦長の上下窓と三角ベディメント、胴蛇腹がアクセントとなり、風格ある外観を構成しています。療養地として著名な湘南に残る貴重な建物で、平成三十(二〇一八)年三月二十七日、国登録有形文化財(建造物)に登録されました。
  令和二(二〇二〇)年三月
    茅ヶ崎市教育委員会
      ちがさき丸ごとふるさと発見博物館』

1.「南湖院の歴史
2.「茅ケ崎市史2 資料編(下)・南湖院平面図」 茅ケ崎市 昭和53年10月
3.「茅ケ崎市史4 通史編」 茅ケ崎市 昭和56年3月
4.「藤沢市史5 通史編」 藤沢市編さん委員会 昭和49年10月1日
5.「鉄砲場とその周辺の農民・漁民が負った苦労」 出張千秋 わが住む里No.53
6.「没後90年 萬鐵五郎展図録」 東京新聞発行 2017
7.「南湖院(萬鐵五郎)

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