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2020年12月

2020年12月20日 (日)

金沢道を辿る:金沢の古い地形4

 往時、鎌倉から釜利谷に向かって武相尾根を超えると長い谷戸の最奥、進むに従い谷戸は開け、やがて内海の北端になります。

 江戸時代になって世の中が落ち着くと物見遊山に出かける人も増えます。江戸を起点にすると、鎌倉・江の島巡りは三泊四日の旅程だったようです。金沢経由で鎌倉に向かうと、金沢近くになって能見堂を通過します。現在は削平された跡が残ります。

 幕末の浮世絵師・歌川広重は金沢の金沢八景を描いていますが、この八つの景勝地は能見堂から見えたものです。金沢八景は改めて案内しますが、その一つ「小泉夜雨」が、長い谷戸を抜けて初めに見る内海の辺になります。
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 この周辺の様子を、横浜市歴史博物館の中世金沢(往時は六浦)のジオラマで示します。
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 金沢文庫駅近くの正法院の裏、赤井不動まで上ると目の前に「小泉夜雨」の光景が広がります。もちろん海などありませんし、事前の知識がなければ気付くこともないでしょう。足元のバス通りまで海が入り込んでいました。正面の丘の右側に現手子神社が、左側が「小泉夜雨」の地です。
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  (2020年12月20日記録)

#大鎌倉 #金沢 #六浦

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2020年12月18日 (金)

金沢道を辿る:金沢の古い地形3

 白山道(しらやまみち)は、鎌倉・金沢間を結ぶ最初の古道、武相尾根越えになります。呼称は、かつて釜利谷奥にあった白山寺(はくさんじ、白山堂とも)へ行く道の意味です。最初は鎌倉・釜利谷間、後に称名寺付近間まで延びます。現在、鎌倉・釜利谷間は古道を失ないましたが、釜利谷・称名寺付近間は概ね古道跡を辿れます。

 往時、鎌倉から釜利谷に向かって武相尾根を超えると長い谷戸の最奥、進むに従い谷戸は開け、やがて内海の北端になります。
 現在、谷戸は宅地化していますが、狭い道筋は地形に沿い、うねるように延びて古道の俤が感じられます。横浜市歴史博物館の中世金沢(往時は六浦)のジオラマと現在の写真で雰囲気が伝わるでしょうか。

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 往時、内海が見えだす辺りは、少し時代が下ると金沢八景・小泉夜雨の景勝を称賛された場所です。

 やがて内海の浜辺は海に突き出た白井崎に遮られます。
 現在、京浜急行金沢文庫駅の西側に平行して見える小高い丘が白井崎です。各所を削られて細っていますが。駅前ロータリから建物の間に先端部が、駅のプラットホームから左右に延びる小高い地形が、谷津浅間社の参道途中から丘陵部から延びる岬跡が確認できます。

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 往時、谷津の富士坂切通を抜けると、称名寺の裏山・金沢山から続く君が崎が横たわります。先端を回り込んで称名寺付近に向かいます。
 現在、君が崎の先端は、金沢文庫駅の南東数100m、君が崎交差点脇の小高い丘で確認できます。北側のバス通りを駅から称名寺まで歩くと、削平されていますが起伏で、かつての岬がそれとなく感じられます。

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 地形は大きく変化しましたが、古の俤を見つけ出すのも路上観察の楽しみです。


  (2020年12月18日記録)

#大鎌倉 #金沢 #六浦

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2020年12月10日 (木)

金沢道を辿る:金沢の古い地形2

 古道の話に入る前に、もう少し金沢の古い地形を考察します。

 横浜市歴史博物館に中世金沢(往時は六浦)のジオラマがあります。じっくり眺めると地図とは別の気づきがあります。

 前掲の地図にほぼ相当する部分を掲載します。

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  (2020年12月10日記録)

#大鎌倉 #金沢 #六浦

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2020年12月 6日 (日)

金沢道を辿る:金沢の古い地形

 これから暫くの間、鎌倉市・横浜市金沢区間の古道を考察します。始めるに際して次の2点を知って頂くと話が円滑に伝わると思います。

 金沢区の古称は武蔵国久良岐郡六浦荘、六浦荘には六浦本郷・釜利谷郷・金沢郷・富岡郷の4つの郷があり、本郷は地域の中心を意味します。往時は六浦荘が上位にあり、金沢郷を内包しています。ところが現在は、金沢区の六浦町・六浦東町・六浦南町であり往時とは広狭が逆転します。
 必要に応じて明記しますが、通常は現在の概念を用います。

 金沢区の地形は江戸時代に始まる新田開発、近年の沿岸部埋立で大きく変化します。
 しかし古道を変化させる要因は、朝比奈切通開削、瀬戸橋架橋です。朝比奈切通開削は、武相境の尾根を越える難儀を解消して鎌倉・六浦本郷をより密接に結びます。瀬戸橋架橋は、高々数10m幅とは云え通行を阻む潮の早い瀬戸の通行を容易にして六浦経由で鎌倉・金沢郷をより密接に結びます。より早く、より容易に通行できる道筋への変化と捉えられます。
 海が陸に奥深く入り込んだ近世初頭の地形に、後の変化の様子を重ねて示しておきます。

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 図出典:松田磐余「江戸東京・横浜の地形」 
     (神奈川県立金沢文庫(1993)による「金沢八景図」の主要部分を編集して簡略化)に加筆

   (2020年12月6日記録)

#大鎌倉 #金沢 #六浦

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