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2020年8月

2020年8月31日 (月)

袖すり山(四次元的路上観察「高島台を辿る」より)

 旧東海道神奈川宿・保土ヶ谷宿間は、深く湾入する入江と迫る丘の間を進みます。入江は着物の袖のような形をしているので袖ヶ浦、中間辺りの丘は袖すり山(現浅間台みはらし公園)と呼びます。
 袖ケ浦は江戸時代中頃から明治時代に埋立てられ、今は痕跡すら残りません。袖すり山には、源頼朝勧請と伝わる浅間神社が造営されて今に続きます。ただし江戸名所図会で人穴社とも云われた浅間神社周辺は住宅が密集、人穴も現存しないようです。ちなみに人穴は古代の横穴墓で、周辺に20基ほど存在したようです。

 五雲亭貞秀「東海道神奈川台臺并かるい沢ヨリ横濱海岸町同本町横濱木村を見渡其海面数万の大舩を見る圖ナリ(*1)」は、神奈川宿と保土ヶ谷宿間から開港場方面の様子描いています。左手の崖の向こうが神奈川宿、坂は神奈川台(現神奈川台町)西側、下り切った辺りが神奈川宿の西外れです。坂は随分急に見えますが、今は自動車が通行するために緩やかです。
 江戸を発って西に向かう旅人の多くは最初の泊りが保土ヶ谷宿、海岸沿いの平坦な道を30㎞ほど進んで、最後近くに難所神奈川台を超えます。袖ケ浦の風光明媚な景色が疲れを癒したことでしょう。
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 図に地名のいくつかを追記しました。右下に芝生村、横浜道入口とありますが、現浅間下交差点付近、第三京浜道路三ツ沢料金所から桜木町方面に向かって丘を下り切った所になります。左下に人穴山がありますが、これは江戸名所図会にも描かれた浅間神社の横穴墓です。

 これらの情報を総合すると、この絵が描かれたのは袖すり山東側と推定できます。

 公園から見られる現在の光景が次の写真です。残念ながら公園東側は私有地で立ち入れません。さらに樹木の繁茂が景色を遮っています。
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 特徴ある地形や建物から、貞秀の絵と写真の画角を推定したのが次の図(*2)です。概ね重なります。既に袖すり山から描かれたと言ってしまいましたが、さほど矛盾はないと思います。
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 絵が描かれたのは1860(万延元)年頃ですから、160年の歳月の隔たりが感じられるのではないでしょうか。

  出典:1.国立国会図書館デジタルコレクション
     2.国土地理院地図に加筆

  (2020年8月31日現在)

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2020年8月30日 (日)

鎌倉の護良親王史跡・旧跡

 最近知ったのですが、柏尾通り大山道近くに護良親王首洗い井戸があり、近くの天王社の祭神は親王で本殿地下に首が埋められているとのこと。既に知ることとして、護良親王陵が鎌倉二階堂にあり、親王の墓が松葉が谷妙法寺にあります。

 知ると云っても上っ面ですが、史跡・旧跡が三カ所もあるので気になりました。少しづつ調べようかと。まずは現地確認ですが、初めて訪れるわけでもありません。意識しているのとないのでは見方も違うかと。

 護良親王は後醍醐天皇の第三王子と云われますが、第一王子との異説もあるようです。足利尊氏と対立、捉えられて鎌倉に送られ、東光寺(廃寺)の土楼に幽閉され、後に斬殺されます。鎌倉宮は東光寺の跡に、明治二年に創建されました。本殿背後に土牢はあります。しかし幽閉されたのは塗籠牢、即ち室の内側を土で塗った所とも云われます。
 写真は拝殿・本殿、土楼、斬首された首が置かれた御首塚。
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 首は理智光寺(廃寺)の住僧によって葬られたそうですが、それが護良親王陵になるのでしょう。陵ですから宮内庁管理ですが、昨秋の台風でがけ崩れがあり、奥までは進めませんでした。
 写真は陵碑、最初の踊り場にある通行止め案内、以前撮影した陵。
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 この後、松葉が谷に向かったのですが、道の選択を誤ったりして疲れ果て、妙法寺は後日として鎌倉駅に戻りました。距離8㎞ほど、それで疲れては街歩きにならないのですが、暑さのせいもあるということにしておきます。

 余談ですが、二階堂から浄妙寺、報国寺、巡礼古道経由で妙法寺のつもりでしたが、報国寺は浴衣を着た女性など、結構な人がいたように思います。それまでと随分違いました。ひところよりは人手が多いように感じました。

  (2020年8月29日記録)

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2020年8月25日 (火)

護良親王首洗井戸(横浜市戸塚区柏尾)

 旧東海道の戸塚不動坂の追分から、小田急江ノ島線長後駅までの柏尾通り大山道を一通り歩いて横浜市内の道筋を確認しました。長後駅から先は少し涼しくなってから歩くことにして、暫くは大山道周辺の史跡・旧跡を調査して、線から太い線に広げようと思います。進行中の泉区の史跡・旧跡の調査と重複する範囲になります。

 不動坂の近くの住宅地の真ん中に「護良親王首洗井戸」があります。なぜこんな所にと思いますが、少なくとも何十年か遡れば寂しい所だったと思いますから、往時は押して知るべしです。
 言い伝えは何通りかあるようですが、例えば暗殺された親王を慕っていた侍女が、夜中にさらし首を盗み取って逃げ、ここまで来て首を洗ったと云うことです。碑は新しく井戸は埋まっています。この辺りは鎌倉道・中道に近いです。

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 首は近くの王子神社に埋葬されたとのことですが、祭神は親王です。神社は旧東海道に背を向けていますが、これは鎌倉を向いているのでしょう。静謐な境内です。

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 親王に関係はないでしょうが、近くに小さな猿田彦神社があります。

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 少しづつ資料を調べて背景を整理していきます。ひとまず現認の報告です。

  (2020年8月24日記録)

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2020年8月19日 (水)

真間の手児奈

 先日、市川市の法華経寺と弘法寺・手児奈霊神堂を散策しました。二回目です。

 法華経寺は中山法華経寺とも云われ、市川市中山町、古くは中山村の名の起こりとも云われます。中山競馬場は、かつては中山村にありましたが現在は船橋市のようです。
 法華経寺は1261年開基の古刹、多くの堂宇があり、聖教殿には日蓮「立正安国論」の真筆(国宝)が収蔵されているそうです。
 横浜市金沢区の上行寺は、中山法華経寺3世日祐上人が開基するなど縁があります。

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 弘法寺は、奈良時代に真間の手児奈の霊を供養する行基建立の求法寺が始まりとされます。平安時代になって空海が伽藍を構え、弘法寺に改称したとのことです。

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 手児奈は多くの男性に慕われつつも、人々が争い傷つくことを憂いて誰に寄り添うこともなく、真間の入り江に身を投げたと伝わる伝説のヒロイン、万葉集に詠まれています。
 山部宿禰赤人が詠んだ歌(長歌省略)は、
  我も見つ人にも告げむ勝鹿の
    真間の手兒名が奥津城ところ(432)
  勝鹿の真間の入江に打ち靡く
    玉藻苅りけむ手兒名し思ほゆ(433)
勝鹿は葛飾、真間は崖を表す地形地名で横浜で言えば野毛になります。

 弘法寺に向かう大門通には、万葉集の名歌が墨書されて掲示されていて、一つ一つ読んでしまいます。必ずしもこの付近で詠まれた歌ではありません。「青に良し」は筑紫で、「熟田津に」は愛媛県松山市付近です。万葉仮名で書かれた書は美しいです。

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とにかく暑かったので、良い季節にまた出かけて散策範囲を広げます。

   (2020年8月19日記録)

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2020年8月14日 (金)

柏尾通り大山道追分

 旧東海道戸塚宿の江戸寄りにある追分から大山に向かう道が柏尾通り大山道です。歌川広重描く『東海道五十三次細見図会・程ヶ谷』で様子が知れます。旅の一行が大きな木刀を担いでいますが、大山に奉納する風習があったそうです。白丸が追分、後方に大山が描かれています。

1_20200814114601(引用:国立国会図書館デジタルコレクション)

 追分に不動堂があります。閉ざされているので中の様子は詳しく分かりません。賽銭を投げ入れる僅かな開口部から覗いた限りでは、大山道と刻んだ台座の上に不動座像が載っているようです。少し先に進んだ永明寺別院門前の道標に類似すると感じます。

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 堂前に道標4基、燈籠1基、庚申塔1基が建立されています。道標の方向指示が実際の向きと合わないものは、周辺から移設したと考えられます。

 ここで話題にするのは最も大きな道標1基です。
 明治5年、下総葛飾郡加村の船大工鈴木松五郎の建立です。これから明治初めはまだ大山詣が続いていた、建立主が加村の船大工であることから江戸川を利用した舟運が盛んだったと想像します。船大工も繁盛して立派な道標の建立に至ったのではないでしょうか。

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 加村は現流山市ですが、河口の現市川市から江戸湾(東京湾)へと繋がります。横浜市金沢区の上行寺開山は、現市川市にある中山法華経寺3世日祐上人です。舟が神奈川湊(大山道)を経由して六浦湊(上行寺)へと進むのは造作ないことでしょう。江戸湾(東京湾)の舟運は意外に発達していたのではないでしょうか。

 1基の道標から逞しく想像しましたが、これを仮説として裏付けの資料を探します。
 
  (2020年8月14日記録)

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2020年8月 3日 (月)

武蔵本牧の鼻

先日、横浜市中区本牧三之谷の本牧市民公園から八聖殿に向けて散歩したら、公園内の市民プールが撤去されて更地になっていました。

市民プールは、古くから海水浴や潮干狩りなどで市民に親しまれてきた海を、工業地帯用地として埋め立てることからその代替として1969年に建設されたものです。ところが何年か前より建物の老朽化と漏水のために営業を中止していました。今後は代替施設が計画されているようです。

市民プールが撤去されて、本牧鼻と云われた本牧岬の先端が現れました。今までも見られないことはなかったのですが、このように真正面から見られるとは思いもしませんでした。見ると大分削られていることが分かります。
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かつて広重は「武蔵本牧の鼻」を描いています。作者不詳ですが「北亜墨利加人本牧鼻ニ切附タル文字ヲ写」は黒船来航時の様子を写した一コマです。ある意味名所でした。
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絵に描かれた様を一目見たい思いもありました。埋め立て前は海からしか見られませんが。今さら元には戻せませんが、一目見られたことで良しとしましす。

崖の上は、市民公園から続く本牧臨海公園です。公園内に横浜市八聖殿郷土資料館があって、埋め立て前の様子などを知ることができます。興味あればお出かけ下さい。
   (2020年8月3日記録)

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