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2018年8月

2018年8月27日 (月)

横浜久保山の土佐藩官修墓地

 横浜市営久保山墓地の一画にある土佐藩官修墓地が見つかりましたので、ご紹介しておきます。先にご紹介した長州藩官修墓地と性格は同じですが、1m×2mほどの敷地に7名の墓碑が重なるように建立されています。一番手前の墓碑側面に『被銃創六月七日死於横濱大病院』と刻まれています。

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 案内は次のとおり記載されています。

『官修墓地

慶応3年(1867)に行われた大政奉還によって起こった討幕派と旧幕府軍の戦い、戊辰戦争(慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦いから明治2年 (1869)5月18日の五稜郭の戦いまで)は、数多くの負傷者を出しました。当時の日本医学は銃創を治療する技術が未熟であったため、官軍藩士の負傷者を治療するため、野毛町林光寺下の修文館に慶応4年4月17日、横浜軍陣病院を開設し、イギリス公使館の医官ウイルスが治療にあたりました。鳥羽・伏見、箱根、奥州棚倉、白河、会津若松、今市など各地の戦いで負傷し、軍陣病院に入院した藩士たちのうち56名が他界しました。長州藩と土佐藩では、14名の藩士たちを西戸部の大聖院に葬りました。
 明治7年7月、久保山に共葬墓地が設けられ、大聖院の墓地が改葬された折、この地に移葬されました。官修墓地と呼ばれ、6区に長州藩士、19区に土佐藩士が葬られ、18区には西南戦争(1877)で戦士した兵士や巡査が葬られています。
 横浜軍陣行院は、6ヶ月余で閉鎖され東京府大病院(後の東京大学付属病院)として拡大され、日本の近代医学の先導的役目を果たしました。

横浜市教育委員会文化財課
社団法人 横浜国際観光協会
平成6年3月』

 先にご紹介した長州藩官修墓地と性格は同じですが、ちょっと窮屈な場所という印象が強いです。
 もう一つの官修墓地、西南の役の人たちの墓碑が見つかりません。また探してみます。歴史ですから。

   (2018年8月27日記録)

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2018年8月25日 (土)

横浜の史跡と名勝『40.久保山官修墓地』

 横浜市営久保山墓地の一角に長州藩官修墓地があります。どのような性格の墓地かは案内の碑文で知れます。

『長州藩官修墓地
 慶応三年(一八六七年)におこなわれた大政奉還によって起った戊辰戦争(一八六八年)は日本を混乱の渦に巻き込んだ。
 この戦いにより数多くの戦士が傷つき斃れたが、当時の日本医学は銃創を治療する技術が貧弱で、官軍の負傷者は横浜に送られイギリス人医師ウィリアム・ウィリスが野毛(後に大田陣屋内に移転)に解説された横浜軍陣病院(後の東京大学付属病院)で治療した。
 しかし、不幸にも亡くなった者は明治七年七月に久保山共葬墓地が定められた時ここに移送された。
 この墓は長州藩士のもので墓碑を見れば奥州白河、棚倉、若松などの戦いで負傷したことがわかる。
 この官修墓地以前神奈川県が管理していたが、ほとんど無縁のままの状態で荒廃していたため、この度旅西区観光協会並びに山口県においてその整備が行われた。
                            昭和五十六年三月
                            西区観光協会
                            山口県』

 戦士の墓碑は7基ありますが、背面の経歴で「鳥羽之役」「小田原之役」で負傷した者もいると知れます。
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 久保山墓地には、他に土佐藩と西南之役の官修墓地はがあるようです。異境の地で永眠する人のいることを多くの人に知って頂きたいと思います。最寄駅は相鉄線西横浜駅、ほぼ南に向かって久保山墓地に入り、島茶屋の前を道なりに上ると案内があります。途中で保土ヶ谷道を横切ります。

   (2018年8月24日記録)

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2018年8月 4日 (土)

横浜の史跡と名勝『84.小机泉谷寺と廣重の筆』

 『84_4東紳奈川駅から横浜線に乗り替へて、菊名の次が小机駅、今はこの町も横浜市の一町に編入された。駅から右手へ城山の切通しを過ぎて五六町行けば、老松古杉の自らなす閑寂を風光のうちに、松亀山泉谷寺がある。この寺は浄土宗であって、関東十八檀林の総頭江戸三縁山増上寺の法類といわれ、昔はなかなかの貫録を示したものであった。

84a_2  この泉谷寺の本堂に、一立斎廣重描くところの大作があった。八枚の杉戸に桜の古木が横走し、しかも同じく苔むした枝からは、爛慢たる花の開いて居るさまが描かれて居る。数々あろうなれども、かような廣重の大作は、恐らく天下一品であろうと思はれる。

 この絵は郷土の史賞を探索する人々の間には、かなり古くから知れ渡って居るものであった。しかしいわゆる機感が熟せなかったか、ついに今まで多くの鑑賞家に、知られずに来たものである。近来不図したきっかけからこの大作も、天下に紹介せられるようになり、横浜としての誇りを、世に公にすることのできるようになったのは何としても愉快である。

 同じ小机町に村岡を姓とやる紺屋がある。この家は旧家であるが、ここにも未だ世に知られぬ廣重の筆がある。袋戸棚の四枚に、淡彩を施した四季の絵で、桜、杉山、菊に胡蝶、寒牡丹が風韻高く書かれ、これに亀山と号する人の手になる詩歌俳諧などが讃として添へられてあった.村岡家代々の伝うるところでは、この亀山と称する人こそ、泉谷寺の住持であり、しかも廣重とは兄弟の間柄であつたといふ松亀山の山姥から探って雅号としたものか、俚伝では後にこの僧、京の黒谷に移席したという話である。

 廣重は安政五年、齢六十二を以て没した。さすれば寺に来って長く遊び、天保の剃髪から太く俗人との交りを忌んだといふ話と照応して、見えざる歌川の筆道史に、一の逸話を残すものであらう。』

   出典:横浜郷土史研究会「横浜の史跡と名勝」 1928(昭和3)年


 泉谷寺は小机領子年観音霊場第一番。写真では茅葺の本堂と見受けられますが、すでに建て替えられています。広重の絵は非公開です。長い参道があって、いまでもなかなかの風格を漂わせています。

   (2018年8月4日記録)

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横浜の史跡と名勝『83.小机城趾』

 『東紳奈川駅から汽車で十五分程、横浜線小机駅に下車して右手を見れば、田んぼの中に孤立した老松の生い茂った小高い丘が見える。これが名高い小机城址である。

 文明十(1478)年二月、守るは成田某、攻めるは太田資持入道道灌、数次の激戦があったが名に負う要害の地、道灌が小勢では如何ともする事はできなかった。人馬は疲れる士気は萎縮する。ここにおいて道灌は「小机は先づ手習いの初めにていろはにほへとちりぢりになる」。一首をものし軍兵に歌はせて攻めかかりさすがの小机城も落城してしまった。七重八重と山吹を貫ってしょげた道灌も軍にかけてはかく当意即妙であったと今でも里人は言って居る。

 その後この城に北條の重臣笠原越前守及能登守父子が小田原没落の時迄居たが、その後は荒るる任せ今では老松古木が昔を物語るのみで虫の音が殊更に寂しい。』

    出典;横浜郷土史研究会「横浜の史跡と名勝」 1928(昭和3)年

 

 横浜郷土史研究会「横浜の史跡と名勝」は1928(昭和3)年、90年前に発行されています。その頃の横浜市域は北が鶴見・南綱島、そこから西に向かって小机・永田、南は杉田あたりまでです。その範囲の名所が取り上げられています。

 既に著作権保護期間を過ぎていますので、街歩きに合わせて時々、名所を紹介していきます。多少でも参考になれば。

 現代表記に変えていますが心もとありません。

 写真は南側からの撮影と思いますが、山裾に沿って農家が点在していました。手前は田んぼでした。子供の頃(60年前)の記憶です。横浜線は単線でした。

   (2018年8月4日記録)

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