横浜の史跡と名勝『83.小机城趾』
文明十(1478)年二月、守るは成田某、攻めるは太田資持入道道灌、数次の激戦があったが名に負う要害の地、道灌が小勢では如何ともする事はできなかった。人馬は疲れる士気は萎縮する。ここにおいて道灌は「小机は先づ手習いの初めにていろはにほへとちりぢりになる」。一首をものし軍兵に歌はせて攻めかかりさすがの小机城も落城してしまった。七重八重と山吹を貫ってしょげた道灌も軍にかけてはかく当意即妙であったと今でも里人は言って居る。
その後この城に北條の重臣笠原越前守及能登守父子が小田原没落の時迄居たが、その後は荒るる任せ今では老松古木が昔を物語るのみで虫の音が殊更に寂しい。』
出典;横浜郷土史研究会「横浜の史跡と名勝」 1928(昭和3)年
横浜郷土史研究会「横浜の史跡と名勝」は1928(昭和3)年、90年前に発行されています。その頃の横浜市域は北が鶴見・南綱島、そこから西に向かって小机・永田、南は杉田あたりまでです。その範囲の名所が取り上げられています。
既に著作権保護期間を過ぎていますので、街歩きに合わせて時々、名所を紹介していきます。多少でも参考になれば。
現代表記に変えていますが心もとありません。
写真は南側からの撮影と思いますが、山裾に沿って農家が点在していました。手前は田んぼでした。子供の頃(60年前)の記憶です。横浜線は単線でした。
(2018年8月4日記録)
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