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2016年7月

2016年7月17日 (日)

舞踊:Noism「ラ・バヤデール 幻の国」

1_2   演出  金森穣
  脚本  平田オリザ
  空間  田根剛
  衣裳  宮前義之
  振付  Noism1
  音楽  L.ミンクス《ラ・バヤデール》、笠松泰洋

  舞踊家 Noism1 & Noism2
  俳優  奥野晃士、貴島豪、たきいみき(SPAC)

  会場  KAAT神奈川芸術劇場〈ホール〉
  公演  2016年7月1日(金)~3日(日)
  鑑賞  2016年7月2日(土) 17:00~19:00(休憩15分)

 「ラ・バヤデール」は、「箱入り娘」「カルメン」に続く劇的舞踊第3作。Noismはちょっと演劇づいているようだ。
 その理由を考えた所で大した思いが浮かぶ訳でもない。それでも、Noism自体の方向性か、客が求めるのか、それともレジデンシャル・カンパニーの宿命として大きなものの意向が忖度されているのか、恐らく入り混じっているだろうと想像する。もちろん客に愛されてのカンパニーだから、存続を前提に方向性を調整せざるを得ない面は多々あるだろう。しかし「J.S.バッハ《無伴奏バイオリンのためのパルティータ》」における絶対的な身体表現などを見たら、そこから遠ざかっているようで年老いた一ファンとして一抹の寂しさもある。それは置いて。

 「ラ・バヤデール」ではSPACの俳優三人が客演。「箱入り娘」では客演なし、「カルメン」ではSPAC(静岡芸術劇場)の俳優一人が客演。客演の数に比例する訳でもないだろうけれど、劇的な要素は「ラ・バヤデール」が一番強く感じた。もちろん脚本も演出も空間構成なども相まってのことだが。そして・・・。

 『物語は一人の老人“ムラカミ”の回想から始まる。曖昧な記憶を辿るように、かつてここにあった幻の国マランシュが蘇る』。これでおよそは判るだろう。ミンクスの音楽に近代の史実が重ねられていることが。そして車椅子、舞台面に描かれた大きな四角の領域とそこから延びる花道を思わせる帯状のパターンは、利賀の野外劇場を思わせる。名前は載っていないが、鈴木忠志の存在を思わずにはいられない。SPACも鈴木忠志の創立だ。

 劇的舞踊としては「カルメン・再演」も興奮したけれど、今回の「ラ・バヤデール」が一番興味深かい。劇的な要素が全体を支配しているとはいえ、美しい場面も多かった。
 特に後半、舞台奥のホリゾントに設けられた小さな出入り口から連なって出てくるダンサー、少しづつ変化しながら繰り返される長めのコール・ド・バレー。この場面はとても美しく、そして言葉なしの身体表現の饒舌さに心打たれた。恐らく10数回は見ているだろうNoism公演の中で、そして全てが記憶に残る訳でもないけれど、恐らく最も美しい場面だと思っている。メンバー一人一人を知る訳ではないけれど、カンパニーとしての実力を強く感じさせられた場面でもあった。演出・金森穣が殊更印象付けられた。

 どちらかと言えば井関佐和子、中川賢、遡れば「カルメン・初演」の真下恵とか、個人の印象が強く残るのは当たり前だ。今回も、コール・ド・バレーの後に続く井関・中川のデュエットが、儚さを漂わして深い印象を残した。

 そして、SPACの俳優が一気に幻の国に転じてしまった。脚本の平田オリザの鮮やかさ、今の世の中への警告でもあろう。

 私はなお、物語性の無いコンテンポラリーダンスを切望するけれど、それはそれこれはこれで、特に後半は見事な出来栄えだと思った。総合力で到達した至福の2時間と総括しておく。

   (2016年7月17日記録)

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2016年7月 5日 (火)

演劇:「日輪の翼」

  原作    中上健次
  脚本    山崎なし
  演出・美術 やなぎみわ
  音楽監督  巻上公一

  出演    オバ(老女) 重森三果、SYNDI ONDA、ななな、檜山ゆうこ、南谷朝子
        若衆     石蹴鐘、上川路啓志、辻本佳、西山宏幸、村岡哲至
        若い女    サカトモコ、藤井咲有里、MECAV
        楽隊     Saro、嶋村泰

  会場    横浜赤レンガ倉庫イベント広場
  公演    2016年6月24日(金)~26日(日)
  鑑賞    2016年6月24日(金) 18:30~21:00(休憩10分)
  参考    公式HP http://www.kaat.jp/d/yanagi_nichirin

 ヨコハマトリエンナーレ2014、新港ピアー会場の建屋内にステージ・トレーラー、通称デコトラが翼を広げるように展示されていた。「やなぎみわステージ・トレーラー・プロジェクト」の中心となる大道具。多くの耳目を集めていたが所詮は工業製品、派手な装飾を施されようと、東北画によるトレーラ下部を彩るスカートが張り巡らされようと、プロジェクト途中の未完成品と捉えていた。

 まだ明るい特設会場、観客席に後部を見せてデコトラが停まっている。その左右にスピーカーを積んだ軽トラック、さらに左側にクレーン車。それらを囲むようにしてベルトパーテーションが張られている。会場後方の一般道に自動車が行き交い、ホリゾントは横浜の街。野外劇場の演劇を何度も見てきたけれど、これほど一般空間と劇場空間の境界の稀薄な設営は皆無だった。
 これは「路地」の暗示だろうか。多くの人を苦しめてきた、未だに苦しめているだろう「路地」に物理的な境界などある訳でないとでも言うように。

 野外公演に雨は付き物、ましてや梅雨時。ポンチョ、オーバーズボン持参、要はハイキング支度だ。それまでして見たいかと問われれば、見たいと答えざるを得ない。万に一つのかけがえのない何かを見つけ出す可能性がある。何よりヨコハマトリエンナーレ2014の完結を見届けなければならないのだから。

 過去2作、やなぎみわ演出の演劇を見て、時代背景を理解していなかったので難解と感じた。今回は中上健二「日輪の翼」だけは通読した。他の作品までは手が出なかったが。

 

 雨が降る中で始まる。熊野の「路地」から立ち退きを迫られたオバたち(老女、原作で7人、ここでは5人)が、同じく「路地」出身の若者・ツヨシたちが運転するトレーラーの荷台に乗って旅をする。物見遊山ではない。オバたちが生きるための拠り所とした場所であったり、今となっては浄化された思いしか残らないであろう過去の苦界であったりする。ご詠歌を供え、迷惑がられる清掃奉仕をして、一時の至福を得る。若者たちは女性漁りに余念がない。奇妙な一行は、伊勢、尾張一の宮、諏訪、瀬田、恐山、東京へと移動する。途中、オバは死んだり、蒸発したりもする。

 舞台化困難とも思える原作にリアリティを与える中心がデコトラ、翼を開いたり閉じたり。ダンスのステージになったり、音楽ステージになったり。何よりオバたちの生活空間だ。
 猥雑な各所を表すのが、クレーン車でロープなどを釣り上げて行うアクロバチックな芸(演技)だったり、ポールダンス、多用な音楽・ダンスであったりする。

 俳優(芸人・音楽家)たちは芸達者、それなくしてこの演劇は成立しないだろう。そして最後にゆるゆるとデコトラは走って視界から消えていく。夜の帳が落ちた横浜の街、おもしろうてやがて悲しき現実か。

 

 ヨコハマトリエンナーレ2014におけるデコトラ展示を評価などしなかったが、ここでデコトラが息づいた感じだ。存在感を確認し、現代美術というか現代演劇というかの完結を見た。

 原作の土着性は薄れ、その分エンターテイメント性が増している。表現上の制約も大いにあっただろう。中上健二「日輪の翼」と言うより、やなぎみわ「日輪の翼」に生まれ変わった。それで何が悪い。

 雨は本降りになりそうな感じもしたが、前半半ばに上がった。熊野は多雨、雨でも良かったかなと思うのは強がりだったかも知れない。

   (2016年7月5日記録)

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