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2015年8月 9日 (日)

随想:ジョー・オダネル「焼き場に立つ少年」

Photo_2  ジョー・オダネル撮影の「焼き場に立つ少年」こそ、今までに見た写真のなかで最高の作品だと思う。そして、残る生涯に、それを上回る写真を見ることはないと思う。

 正確に言えば、プリントを見たことはない。書籍やインターネットサイトで見ただけだ。それでも、写真に写し込まれた少年の尊厳に満ちた姿に、幼くして過酷な試練に耐える様子に、強く心を打たれる。

 ジョー・オダネル・米海兵隊第五師団軍曹は、1945(昭和20)年9月、長崎県佐世保港に上陸。帯びた任務は、海兵隊従軍報道カメラマンとして、広島、長崎への原爆投下による被害状況と、軍都であった福岡(旧八幡市・小倉市)、宮崎(都城市)へ米軍が行った空爆による被害状況を記録することであった。

 私用カメラは持参していないし、私用の撮影は禁止されていたが、それでも密かに撮りためたうちの一枚が「焼き場に立つ少年」。カメラは、佐世保に上陸したジョー・オダネルが、市内の写真店で見かけてタバコと交換したもの。長いこと秘匿されていた写真は、半世紀ほどして日の目を見る。

 2000年台になって、他の写真と共に写された人物の捜索が行われた。何人かは特定できた。新聞報道されていたから記憶にある方も居られるだろう。しかし、「焼き場に立つ少年」は特定できなかった。私的写真であったことから、正確な記録もない。ジョー・オダネルの古い記憶を頼りに、撮影地の特定なども試みられた。種々の状況から長崎、原爆投下後二か月以内の頃らしい。

 写真は、プリントとタイトルで全てだ。しかし、半世紀ほど過ぎてからのジョー・オダネルの言葉を記しておこう。多分に反則技だが。

 「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は、六十センチほどの深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。十歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中にしょっています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの火葬場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも足は裸足です。少年は火葬場の淵までくると、かたい表情で目を凝らして立ちつくしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
 少年は火葬場のふちに、五分か十分も立っていたでしょうか。白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。このとき私は、背中の幼子がすでに死んでいることに初めて気づきました。男たちは幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、火葬場の熱い灰の上に横たえました。幼い肉体が火に溶けるシューという音がしました。それから、まばゆいほどの炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気がついたのは、あまりきつく噛みしめているため、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま去っていきました。
  写真が語る二十世紀「目撃者」展図録
  (C) 朝日新聞社一九九九年(インタビュー・上田勢子)」 (*1)

 詳細不明だが、少年が死んだ赤ん坊を背負ってきて荼毘に付した事実。原爆被害者と断定できなくとも、敗戦が色濃く漂っていたことは間違いないだろう。このような時代が再び来ないことを祈念するとともに、行動する。

  *1 『焼き場に立つ少年』は何処へ・古岡栄次郎・長崎新聞社
  *2 Rare Historical Photos

  (2015年8月9日記録)

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