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2015年8月

2015年8月28日 (金)

路上観察:越後妻有アートトリエンナーレ2015

 前日に新潟から移動、越後湯沢駅着16時。直前に予定変更したので宿泊は五日町。十日町まで小一時間。トミオカホワイト美術館、八海山泉ビール蒸留所、八海山ロープウェアーが近いけれど、残念ながらどこも寄れなかった。

 第1日目。今回は新作中心に回るつもりで、今日は松代・松之山・津南町山間部の予定。しかし、思うほど回れなかった。

 「草間彌生」「カバコフ夫妻」は第一回作品で飽きるほど見たが、それでも妻有に来たことを実感させてくれる。
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 「田中望・京につながる越後妻有郷」はどうしても見たかった。妻有の伝承を行灯に仕立てた現代の鳥獣戯画か。
 今年の2月の横浜美術館「潮つ路」。秋田の文化・信仰・伝統芸能・祭などにまつわる伝承をテーマにした作品で埋め尽くした個人展が思い返される。2月時点では山形芸工大の博士課程に在籍していたが。
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 「カバコフ」の新作を見たくて松代の裏山中腹まで上がったけれど、人生を作品にされたところで。
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 戻ると、農舞台で芝居のリハーサルをしていた。
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 蓬平の「古巻和芳+夜間工房」、ここは絹、養蚕をテーマにしているが、今回は裾の長い白無垢の衣装。鶴の模様が美しい。
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 「大巻伸嗣」は暗くて写真が写らなかった。煙を閉じ込めたシャボン玉が浮かび上がる作品。ちょっと押しつけがましい気がしないでもない。かつて、ヨコハマトリエンナーレで無数のシャボン玉を飛ばせた時は夢を感じたけれど。

 「名工大石松研究室・狐の棚田プロジェクト」、上から見下ろした写真だが狐に見えるか。
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 山奥の「日比野克彦・明後日新聞」。2003年から土地と一体になって活動している。初めてではないが来てしまう。本人がいた。
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 「奴奈川キャンパス」は、いろいろ作品があったけれど、印象深い作品に出会わなかった。
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 第2日目、雨。十日町の北の方から津南町にかけて回る予定だったが。

 「もぐらの館」は旧東下組小学校を利用して土に関係する作品。統一テーマは以前から変わらないが、土の温かみを感じられて好き、校庭に展示された「風還元「球体 01」」など。
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 「うぶすなの家」は大変混雑、地元の女性たちが食事を提供してくれるのも人気の一つか。
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 十日町の拠点・キナーレ。何回も来たが第2駐車場に車を止めたのは初めて。結構な人出だ。
 キナーレは四角い建物の中央が池、そこに「蔡國強・蓬莱山」。周囲に藁で作った航空母艦などが吊るされていて、いろいろ考える。前回はボルタンスキーが古着の山を築いていたけれど、池の中央には山が似合うか。
 前庭の穴に一日中入り込んでいるのは「開発好明・モグラTV」。客が入れ代わり立ち代わりモグラに話しかける。現代芸術を身近にする。
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 中里の山中「施海・森の夢」。隣の墓地に新盆だろう、横浜で見ない特別な飾りの墓が二つほど。
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 越後湯沢に向かう途中で「うつすいえ|うつすにわ」、多少内装が変わっていて、自分あてのメールを書く作品。
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 予定の半分も観られなかった。2011年、黄金町のヨコトリ関連企画で遺影撮影、今回撮りなおす予定だったが名ケ山写真館に寄れなかった。「磯部行久・土石流のモニュメント」「JR飯山線アートプロジェクト」「アジア写真映像館」「川俣正・ツマリ・ジオラマ」は予定したが、見られなかった。

 越後湯沢駅で風呂に入り、ビールで涼をとり、18時に車中の人となった。
 第一回から欠かさず出かけた越後妻有アートトリエンナーレも、今回で卒業かな。来年は東北へ向かおう。

   (2015年8月27日記録)

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2015年8月27日 (木)

路上観察:水と土の芸術祭2015

 8月11日11時新潟駅着。南口観光案内センターで、バックパックを今夕の宿泊先へ配送依頼(手ぶらで観光サービス)。基本はレンタカー利用だが、ベースキャンプ会場は駐車場がないため、駅から公共バスと巡回バスで向かう。レンタカーは、ベースキャンプから戻った後から利用。土地勘があれば工夫の余地はあるかも知れないが、新潟初訪問の私には無理。

 8月12日15時新潟発。滞在は約1.5日相当。予定は各会場を巡回するつもりだったが、見残しが多い。行けば何とかなると思っていたので事前調査は殆ど無し。これは失敗。

 

 第1日目。駅周辺の主要道路は幅広く、空中架線がなく、ビルが低くて空が広く、それだけのことだが美しい街だと思う。公共バスで、古町のインフォメーションへ。
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 巡回バスでベースキャンプ・旧二葉中学校へ。まだ新しい感じもする廃校舎に、何か大きな変化が起きていることを実感させられる。こじんまりした手作り感のある作品が多い。立派な仏壇を分解展示する作品、パーツが結構多い。他所で何層倍も大きな仏壇を見かけるが、先祖代々が繋がらなくなることも少なくない昨今、考えさせられる。身軽が良い。
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 万代橋近くの竹で作ったドーム。ぽつんと有るだけで物珍しさはあるけれど、それ以上に発展しない。土日なら、何かイベントがあるのだろうか。
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 レンタカー借用。建屋を見るだけだがリュートピアに立ち寄る。立派で美しく、夜になって灯が入れば一層美しいだろう。「NOISM」のディスプレイが。いつか、ホームの「NOISM」を見に来るぞと思う。
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 鳥屋野潟に向かう。名前は以前より知るものの、市中にこんなに広い潟があることを知る。道が判らず、辿り着けなかった作品が多い。
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 宿泊は弥彦温泉。日本海沿いに夕焼けドライブの予定だったが、天気も悪く、道も判らなかくて直行。新潟市内宿泊でも良かった。

 

 第2日目。厚い信仰の存在が感じられる弥彦神社参拝。神道を否定しないが、歪められた過去が引っかかる。
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 弥彦山を超えて海側へ。山頂は霧、佐渡どころか眼下の海岸すら見えたり見えなかったり。

 海岸沿いのドライブウェイを新潟方面に戻りながら作品鑑賞。と言いながら見落としが多い。気付いても戻る気はしない。横目で見る海水浴場も人が少ない、って湘南と比べても。
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 佐潟はラムサール条約登録の湿地だが見た目は湖。野外観察センターで双眼鏡を覗く。開花中の蓮の前でサギが餌を食む。二つの作品を見るには、潟を半周ほど歩く。人が身に着けたもを作品に仕立て上げることに既視感はあるが、泥にまみれたパンツの林立に先人の苦難を思い起こすのは容易だ。郷土にしがみ付くしかない人がいた。
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 上堰潟は半分は乾いていたが、増水期は水が入るのだろう。地面は柔らかくて弾むようだ。そこにアーチ状の作品、上に乗ればフワフワと弾む。
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 芸術祭は真正面から受け止めるけれど、心構えは、作品に導かれて自然の中を彷徨する感じが正しい接し方のように思う。ホワイト・キューブに納まった作品を鑑賞するわけではないのだから。
 そのためには正味3日が要りそうだ。そうすれば「水と土」の環境を含めて新潟の自然を理解できただろう。それでも「新潟の潟」の意味を少し知った。
 郊外型芸術祭に、便利さを期待する方が悪いようなものだ。それでも遠来の客のために、もう少し丁寧な案内を期待したい。昼食も適当な所が見つからない。週末に出かける方が何かと便利そうだ。次の機会はそうしよう。

    (2015年8月27日記録)

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2015年8月 9日 (日)

随想:ジョー・オダネル「焼き場に立つ少年」

Photo_2  ジョー・オダネル撮影の「焼き場に立つ少年」こそ、今までに見た写真のなかで最高の作品だと思う。そして、残る生涯に、それを上回る写真を見ることはないと思う。

 正確に言えば、プリントを見たことはない。書籍やインターネットサイトで見ただけだ。それでも、写真に写し込まれた少年の尊厳に満ちた姿に、幼くして過酷な試練に耐える様子に、強く心を打たれる。

 ジョー・オダネル・米海兵隊第五師団軍曹は、1945(昭和20)年9月、長崎県佐世保港に上陸。帯びた任務は、海兵隊従軍報道カメラマンとして、広島、長崎への原爆投下による被害状況と、軍都であった福岡(旧八幡市・小倉市)、宮崎(都城市)へ米軍が行った空爆による被害状況を記録することであった。

 私用カメラは持参していないし、私用の撮影は禁止されていたが、それでも密かに撮りためたうちの一枚が「焼き場に立つ少年」。カメラは、佐世保に上陸したジョー・オダネルが、市内の写真店で見かけてタバコと交換したもの。長いこと秘匿されていた写真は、半世紀ほどして日の目を見る。

 2000年台になって、他の写真と共に写された人物の捜索が行われた。何人かは特定できた。新聞報道されていたから記憶にある方も居られるだろう。しかし、「焼き場に立つ少年」は特定できなかった。私的写真であったことから、正確な記録もない。ジョー・オダネルの古い記憶を頼りに、撮影地の特定なども試みられた。種々の状況から長崎、原爆投下後二か月以内の頃らしい。

 写真は、プリントとタイトルで全てだ。しかし、半世紀ほど過ぎてからのジョー・オダネルの言葉を記しておこう。多分に反則技だが。

 「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。すると、白いマスクをかけた男達が目に入りました。男達は、六十センチほどの深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。十歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中にしょっています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの火葬場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも足は裸足です。少年は火葬場の淵までくると、かたい表情で目を凝らして立ちつくしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
 少年は火葬場のふちに、五分か十分も立っていたでしょうか。白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。このとき私は、背中の幼子がすでに死んでいることに初めて気づきました。男たちは幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、火葬場の熱い灰の上に横たえました。幼い肉体が火に溶けるシューという音がしました。それから、まばゆいほどの炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。その時です。炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気がついたのは、あまりきつく噛みしめているため、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に、赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま去っていきました。
  写真が語る二十世紀「目撃者」展図録
  (C) 朝日新聞社一九九九年(インタビュー・上田勢子)」 (*1)

 詳細不明だが、少年が死んだ赤ん坊を背負ってきて荼毘に付した事実。原爆被害者と断定できなくとも、敗戦が色濃く漂っていたことは間違いないだろう。このような時代が再び来ないことを祈念するとともに、行動する。

  *1 『焼き場に立つ少年』は何処へ・古岡栄次郎・長崎新聞社
  *2 Rare Historical Photos

  (2015年8月9日記録)

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