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2015年3月

2015年3月30日 (月)

演劇:KAAT×地点「三人姉妹」

  原作   アントン・チェホフ33379_1
  演出   三浦基

  出演   アンドレイ   石田大
       ナターシャ   伊藤沙保
       オーリガ    安部聡子
       マーシャ    窪田史恵
       イリーナ    河野早紀
       クルイギン   小河原康二
       ヴェルシーニン 小林洋平
       トゥーゼンパフ 岸本昌也
       ソリョーヌイ  田中祐気

  会場   神奈川芸術劇場・中スタジオ

  公演   2015年3月9日(月)~22日(日)
  鑑賞   2015年3月17日(火) 19:30~20:50
  参考   公式HP

 

 最後に三人姉妹が言う「生きていかなければね」「生きていかなければ」「生きていきましょうよ!」。リアリティーを持ってこの台詞を響かせるために、全てがクレッシェンドしていくことが「三人姉妹」の演出の要だろう。

 スタジオは何もない直方体、長手方向の3分の1ほどが仮設の客席。残るフロアーが演技スペース。

 客席に近い所、客席と平行にスタジオ巾より少し狭い衝立が据えられている。鉄枠に透明アクリル板(後に音で分かった)が貼られている。人の背丈より高く、頑丈そうだ。二カ所にドアーがある。アクリル樹脂には白い粉が塗されている。

 衝立は部屋の壁とも思える。テキストに「4幕の戯曲である。第1幕はブローゾロフの家、第2幕もブローゾロフの家、第3幕はオーリガとイリーナの部屋、第4幕はブローゾロフ家の古い庭である」と書かれている。照明の加減で部屋を明示するかと思ったが、それほど単純ではなかった。

 天井から床に向かって木が下がっている。上手・下手の壁に沿って白い文字が書かれているが、ローマ数字のように見えた。

 見えている物は具象的だが、これから「三人姉妹」が演じられると思えば何とも抽象的だ。

 

 ショスタコーヴィチ「セカンド・ワルツ」が流れる。黄昏時を思わす、それは必ずしも一日の黄昏だけを指すわけではないが、哀調を帯びた旋律・響きが、一気にチェーホフの世界に引きずり込む。見事な選曲。

 役者が床を這いずるように、昔風に言えば兵隊が野山を這いずり廻る匍匐前進、で登場してくる。衝立の外側を回って、すなわちローマ数字を掃くように。白い粉は、運動の時にラインを引く消石灰ではないか。手足や衣服にそれが付く。

 男女かまわず二人づつが絡み合う。絡み合うと言えば色っぽい響きだが、レスリングの寝技、相手をねじ伏せるがごとく。何より役者は、パット付サポータあるいは類似の物で膝を防護していることで、激しさが想像できる。

 基調は格闘技。立って絡み合い、衝立に体当たりする。アクリルに塗された白い粉は、手足や衣服から着いたものだろう。少しづつ様子が判ってくる。

 ところで衝立だが、進行に従って斜めになったり、客席に直角になったり、ずっと後方まで押し下げたりされる。かなり重いのだろう、渾身の力で押したり引いたりしているようだ。これらは舞台の変形、つまり場面場面の転換を意味すると同時に、登場人物たちの抑圧された世界を表しているのだろう。

 台詞は細切れに発せられる。文書を構成する最小限の単位、すなわち形態素に分けて発している感じだ。例えば、「私たち」が分割されて「わたし」「たっちー」。しかも「たっちー」にアクセントがくる。戸惑うかも知れないが、すぐに慣れる。
 役者が発する台詞は多くない。しかし、発せられた台詞は「三人姉妹」のエッセンスが抽出されている。

 

 この舞台を観て、チェーホフ「三人姉妹」のあらすじを思い浮かべることは難しい。あらすじを把握していれば、目の前で繰り広げられる表現は「三人姉妹」そのものだ。

 あらすじは知っておくことが好ましい。しかし、知らなければならないということでもない。まず観て刺激をうけるのもありだろう。

 三浦基演出は台詞控えめ、身体表現に重きを置いている。格闘技になったのは、言葉に秘められた暴力性を身体表現に置き換えたから。台詞より身体の方が安定した表現ができると捉えるためだろう。役者は大変だが。

 私はそれを受容できるし、興味深く感じた。そして、三人姉妹が強く生きるだろうことにリアリティーを感じた。

   (2015年3月29日記録)

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2015年3月26日 (木)

演劇:劇団サンプル「蒲団と達磨」

  作    岩松了 
  演出   松井周

  出演   古舘寛治、古屋隆太、辻美奈子、奥田洋平、野津あおい、
       安藤真理、大石将弘(ままごと|ナイロン100℃)、田中美希恵(範宙遊泳)、
       新名基浩、松浦祐也、松澤匠、三浦直之(ロロ)

  会場   神奈川芸術劇場・大スタジオ
  公演   2015年3月 6日(金)~15日(日)
  鑑賞   2015年3月11日(水)
  参考   公式HP

 

33378_1  松井周・劇団サンプルは初めて。今回は岩松了の戯曲上演、普段と様子が異なるかも知れない。

 昭和半ばを思わせる日本家屋の建て込み、見えるのは夫婦の寝室、蒲団が二組敷かれている。夫は寝巻、妻は留袖で各々の掛け布団の上に座っている。その日は娘の結婚式。長い沈黙の後に二人は話し始めるが。

 多くの人物が登場。バスの運転手、夫の妹、妻の弟夫婦、家政婦とその彼氏、夫の(?)知り合い3人、妻の前夫。

 俳優は皆、達者。流れは現代口語演劇。展開する話題にさしたる脈絡はない。ただし、場面場面を捉えればさもありなんの思いはする。シリアスか、コメディーか、不条理か。

 

 冒頭の場面からして滑稽。
 家政婦もいる恵まれた環境が想像できるが、結婚式から戻って大分時間は過ぎている筈だが、妻は着替えていない。運転手が傍らでごろ寝しているのに布団が敷かれている。一つ一つの出来事が旨く時間軸に嵌め込めない。伝統的な日本の夫婦関係がデフォルメされて表現されているのか。

 夫婦の話題は様々に跳ぶ。妻が近所のアパートに部屋を借りたいと言ったこと。教師である夫が生徒から意外だと言われたこと。夫は、妻の前夫に時々会って別れた理由を聞き出そうとするが、要領を得ないこと。

 妻が前夫に、夫が結婚してから変わったと言ったこと。夫は、変わったと言うのは、女に対して「やってもいい?」と言っていた男が「やらせろ?」と言うことかと詰め寄る。妻は、しばらく後に「回数のことを言っているんですか?」。

 異質の話題は挟まるが、貫くのは夫婦の性生活とも思える。とするなら、他の登場人物が関与する余地は少ないのだが。

 最後の場面、妻と夫・前夫が向き合って話している。そこでも要所に性生活の話題が出てくる。部屋の外に誰かがいる気配。夫は家政婦の立聞きかと思って声を掛けると、飛び込んできたのは妹。「兄さん」と泣きながら夫に抱き付く。夫は照れ臭そうにしながら二人は部屋を出ていく。

 

 舞台は田舎の旧家のようだ。部屋は幾間もあるようだし、家政婦もいる。何より妹が「(兄さんは)学校の先生なんかで終わるようなひとじゃないのよ」などと言う。夫の家系には家父長制の意識がありそうだ。

 夫も妻も再婚、年は離れている。妻には新しい家庭像がありそうだ。部屋を借りたいとか、結婚した娘の部屋は自分が使えないとか、前夫も交えた性生活の話題など。

 周囲は、そのような家族に興味津々。家政婦は影に隠れて様子を伺うような所がある。友人たちは夫婦のなれそめが気になるし、未婚の妹の行く末も話題になる。

 古い家族感と自立し始めた女性との葛藤が貫くテーマか。それは当事者の問題に留まらず、周囲に影響を与え、話題の中心にもなる。

 岩松了は、答えを用意しない。漠然と漠然と話を進める。松井周は、面白さをちりばめながら脚本に忠実だ。面白さだけで評価するのは、この演劇を矮小化しそうだ。もっと考えろということだろう。

 ただ、ここで描かれる状況から時代は大きく変化している。日本の伝統的な家族像が認識されていないと、面白い演劇に留まる気がした。「新・蒲団と達磨」が待たれる。

 

 ところで達磨とは何か。
 私の席からはっきり見えなかったが、夫の蒲団の下にはエロ本や小物が隠されている。ゆえに、蒲団に水をこぼされても動こうとしない。面壁九年の達磨のようでもある。あるいは、ギリシャ喜劇の女たちのセックスストライキに、手も足も出ない男たちのイメージも思い浮かぶ。さて、なんだろう。

   (2015年3月23日記録)

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2015年3月19日 (木)

音楽:音楽堂バロック・オペラ「メッセニアの神託」(日本初演)

  曲目   アントニオ・ヴィヴァルディ「メッセニアの神託」(日本初演)
         台本:ファビオ・ビオンディによるウィーン版(1942年)の再構成版

  音楽監督・ヴァイオリン
       ファビオ・ビオンディ

  演出   弥勒忠史

  出演   ポリフォンテ :マグヌス・スタヴラン     (テノール)   男
       メロペ    :マリアンヌ・キーランド    (メゾゾプラノ) 女
       エピーティデ :ヴィヴィカ・ジュノー     (メゾゾプラノ) 男役
       エルミーラ  :マリーナ・デ・リソ      (メゾゾプラノ) 女
       トラシメーデ :ユリア・レージネヴァ     (メゾゾプラノ) 男役
       リチスコ   :フランツィスカ・ゴッドヴァルト(メゾゾプラノ) 男役
       アナッサンドロ:マルティナ・ベッリ      (メゾゾプラノ) 男役

  演奏   エウローバ・ガランテ

  会場   神奈川県立音楽堂
  公演   2015年2月28日(土) 15:00~18:20(休憩20分×2回)

 

20150228__2  昨年11月、神奈川県立音楽堂開館60周年記念週間として色々なコンサートが開催された。今回のオペラは、少し遅いが掉尾を飾る特別企画。

 舞台上に四角い小舞台、ステージ脇に続く左右の花道。残る舞台のスペースは海岸・砂浜の見立て。背の高い移動式衝立4枚が緞帳がわり、意外に機能的と感じた。

 指揮はビオンディの弾き振り。演奏者はステージと客席の間のスペースに配置されたが、少し窮屈そう。楽器は良く見えなかったが、ホルンはバルブなしのナチュラルホルン。他もピリオッド楽器が使用されていただろう。指揮者脇の蓋を外したチェンバロは、演奏者が舞台に正対する配置だが、レチタティーヴォの伴奏を考慮してのことだろう。

 歌手はテノール一人にメゾゾプラノ六人。これは出演者の末尾に記載したが、本来は男性歌手、ただしカストラート、に割り当てるパートに女性を起用したから。見た目の判りにくさはあったが、採り得る最善が選ばれたのだろう。

 オペラの筋は、ポリフォンテによる王国乗っ取りの謀略と、エピーティデによる王国の奪還とエルミーラへの愛のドラマ。ギリシャ悲劇が底流にある。エピーティデはクレオンの偽名を名乗ってメッセニアに帰還するが、「アンティゴネ」でテーバイを乗っ取ったクレオンに通じるのだろう。ギリシャ悲劇に通じていると、もっと深い意味が隠されていることに気付くかも知れない。

 

 最初に讃えよう、出演・演奏・演出・スタッフを。学究的な香りもそこはかとなく漂いそうな本公演、それも休憩込とは言え3時間20分の長丁場を飽きさせることなく、というよりこれがバロック・オペラだと言わんばかりのパフーマンスを繰り広げた。恥ずかしながら、予習もせずに臨んだにも関わらず、心より楽しめた。多少でも予習しておけばもっと楽しめた筈と、臍を噛む思いをした。

 演奏は明るい響きでメリハリがあって堪能した。当然ながらイタリア的と感じたが、とても端正な演奏でもあった。管は魅力的だったが、特に二人のホルンが美しい音色、演奏も見事で心惹かれた。

 歌唱は、一人の歌手がレチィタティーヴォとアリアを歌って退場、次の歌手が登場して同じように繋ぐ。それが最後まで延々と繰り返された。正確にそうであったと言うのは、ちょっと心許ないが。そして、最後を除いて重唱がない。アリアは、A・B・Aと旋律が回帰され、後のAの部分で華麗な装飾が加えられた。ある意味単調だが、それを単調たらしめない歌唱が要求されるということだ。そして、飽きさせることはなかった。
 全員が見事だった。その中で最も魅力的だったのは、トラシメーデ役のユリア・レージネヴァ。ちょっと小柄ながら、声もクリアで技巧も見事、それを確かな表現で伝えられないのがもどかしいけれど、一つ抜き出ていることは判った。カーテンコールでの拍手も一番大きかった。

 演出も変にぎこちない仕草を要求せずシンプルに徹したことが、良いパフォーマンスに結びついたと言える。弥勒自身がもともと歌手だから、コンサート・ホールでのオペラという制約を加味して考え抜いたことだろう。
 衣装も和風あるいはアラビア風とも感じさせる、薄衣を重ねたようなゆったりしたデザイン。舞台に柔らかな雰囲気をもたらして見事。写真でも添えたいところだが残念。

 ほぼ満席の客も讃えて良いかと。実にタイミングの良い拍手で歌手を盛り上げた。歌手も、客席の反応が心強かったのではないだろうか。とかく問題視される演奏会における拍手だが、今回は実に見事で気持ち良かった。

 音楽堂のバロック・オペラは何回か聴いたが、今回は傑出していたと思う。これからも継続して欲しい企画だ。

   (2015年3月18日記録)

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2015年3月 5日 (木)

演劇:N.K.Project「この道はいつか来た道」

  作    別役実
  演出   中山一郎

  出演   男  中山一郎
       女  久保庭尚子

  会場   アトリエ第七秘密基地
  公演   2015年2月25日(水)~26日(木)、全3公演
  鑑賞   2015年2月26日(木) 15:00~16:10

 

 舞台やや下手寄りに電信柱。その先にひしゃげた街灯がついている筈だけど省略されている。根元にゴミ捨て用のポリバケツ。

 ホームレス風の女がか細い声で「この道はいつか来た道・・・」と歌を口ずさみながら立っている。両手にショッピング・バッグを持ち、腰に結んだ長いロープの先に箱を開いたようなダンボールを引きずっている。ポリバケツと話するように位置を変え、ダンボールを広げて休憩の準備を進める。

 その途中で、丸めたゴザを背にくくりつけ、ショッピング・バッグを持ったホームレス風の男がゆっくり現れて、女とポリバケツの成り行きを見守るが、やがて声をかける。「どうしたんですか」。

 初対面らしい二人。女がショッピング・バッグから蓋のない土瓶を取り出すと、男はサイズの大きなやかんの蓋を取り出すなどして、お互いに都合しながらささやかな茶会を楽しむ。次第に親しさを増していくようだ。

 ホームレスの生活が主題だろうか。やがて二人は初対面でもなく、介護施設を何回も抜け出して今に至っていることが判ってくる。

 頓珍漢でおかしな受け答えをしながら進行するので、不条理劇のようにも感じられるのだが、やがて重い主題を扱っていることに気づく。いかに尊厳を持って再晩年を生き抜くかということが主題と判ってくる。

 

 小ビルの地下、客席数せいぜい50の小劇場。男と女を演ずる二人の実力は十分に承知している。平日のマチネーにも関わらず、若い人も少なくない。

 面白くて、やがて悲しい結末。そのことを強く印象付けたのが美しい台詞回し。もちろんそこには間も含まれるだろうけれど、余裕をもって一語一語をしっかり受け止められた。最近の演劇はテンポの速いものが少なくないし、それはそれで面白く感じるのだが、言葉をしっかりと楽しむ雰囲気は稀薄だ。何か久しぶりに新鮮な思いがした。別役の戯曲と演出がうまく融合していたと言える。

 一般的にはどの年代の役者が演じることが多いのだろうか。最後の方で女がこう言う。「だって、私たち、痛がって死ぬために、ここへ来たんですから」。自分はそういう思いをしたことがない。二人は私より随分若いから、なお実感はないだろう。恐らく客の全員が未知の領域だろう。とするならリアリティはどこに。
 今回は穏やか雰囲気を漂わせていた。再演・再々演と続けば、あるいは表現が変わるかも知れない。しっかりした戯曲は息が長い。自分がその変化を観続けられるだろうか、ということに最もリアリティを感じたりして。

 後半に音楽が挿入された。ヴィヴァルディ「四季」から冬の第二楽章・ラルゴはちょっと甘すぎないだろうか。それだけが気になった。

   (2015年3月4日記録)

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