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2015年1月

2015年1月14日 (水)

随想:芸術新潮2015年1月号記事中「2014年夏の、そして冬の性器をめぐる2、3の出来事 股間著聞集」メモ

 美術作家や美術館が社会的論争の矢面に立たされることがある。例えば、先に観た千葉市立美術館の「赤瀬川原平の芸術原論 1960年代から現在まで」展では、千円札裁判関係作品・資料が展示されていて理解を増した。

 社会的論争とするのは曖昧で、行政、特定集団、検察・警察と特定しておくのが正確だろう。ここに一般鑑賞者が加わるかは判らない。

 私自身は鑑賞者に過ぎない。しかし、自ら思う作品の良し悪し以前に、美術家の表現の自由は確保されるべきと考える。楽しいだけの現代美術なら不要だ。

 前置きはこれくらいにして主題に進む。記事の著者は、「股間若衆―男の裸は芸術か」などの著作がある木下直之。芸術新潮への賛意の表明の意味で紹介する。

 初めに断わっておく。当該号の特集は「月岡雪鼎の絢爛のエロス」で、見開きの春画が続出する。当該記事に進む以前に不快感を催しそうに思うならば手に取ることは控られたい。拙文と参考リンクまでならそれほどでもないだろう。

 

 私の知る限りで、社会的論争に巻き込まれたのは、古くは富山県立近代美術館事件における(参考1:アートワード)、これは後の沖縄県立美術館では展示回避措置が取られた。

 新しくは昨夏の愛知県立美術館(参考2:The PAGE)である。愛知の場合は、問題になる以前に回避措置が取られた。しかし、回避措置を取らざるを得なかったこと自体が問題とも言える。

 記事は愛知県立美術館問題・他を取り上げている。全8ページで、写真が半分ほどを占める。見出し引用と簡単なメモで概要を。

 「わいせつな電磁的記録の頒布」は、ろくでなし子さんを巡る最近の話題をまとめている。SNSをウオッチしていれば大概はわかっていること。

 「パリの大股開き」は、パリのオルセー美術館で女性芸術家が下半身を顕わにしたパフォーマンスの話題。係員の説得に梃でも動こうとしない様子が記録され、インターネットで世界を駆け巡った。美術館は警察へ通報をしなかった。彼我の隔たりは大きいか。

 「一市民の通報から」は、愛知県立美術館の件は匿名の市民からの警察への通報で、警察が動き出したことを伝える。作品撤去を命じられた関係者は、撤去に応じない腹を固めた。113年前の白馬会展覧会場でおきた黒田清輝の裸体婦人像をめぐる、紫色の巾にて局部に覆いを施したりに倣ったか、作品の一部をシーツで覆い隠した。

 「わいせつ物の陳列」は、美術館が命令を無視したらどうなっただろうかと疑義を呈する。警察は検挙をちらつかせたというが、その場合誰が逮捕されるのか。陳列した作業員、指示した担当学芸員、一番上ならば県知事か。

 「性器とはどこか」は、刑法に「わいせつ」はあっても「性器」なる言葉は存在しないと。日本の法律に「性器」が登場するのは「児童買春、児童ポルノにかかる行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律」などわずか5件である。性転換手術によって新たに生じたものは性器なのか。

 ろくでなし子さんの逮捕は事件だが、愛知県美術館の鷹野隆大さんの作品をめぐるあれこれはすべて口頭で行われ、結果として不問に付された。展覧会終了と共に忘れられてゆくだろう。そこで、百年後に伝えるためにこれを記した。

参考1:http://artscape.jp/artword/index.php/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E8%BF%91%E4%BB%A3%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
参考2:http://thepage.jp/detail/20140822-00000011-wordleaf

   (2015年1月14日記録)

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2015年1月 7日 (水)

演劇:チェルフィッチュ「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」

  作・演出 岡田利規
  音響   牛川紀正
  編曲   須藤崇規

  出演   店長        矢沢誠
       まみやSV     足立智充
       客1        上村梓
       バイト1・いがらし 鷲尾英彰
       客2        渕野修平
       バイト2・うさみ  太田信吾
       バイト3・みずたに 川崎麻里子

  会場   神奈川芸術劇場・大スタジオ
  公演   2014年12月12日(金)~21日(日)
  鑑賞   2014年12月12日・21日
  参考   公式HP

 

 コンビニエンスストア店頭で展開する喜劇、いや悲劇か。
 前作・前々作の『地面と床』『現在地』では重いものを見たが、本作は方向性を大きく変えた。しかも、バッハの「平均律クラヴィーア曲集第1巻」の響きに合わせて進行する、コンテンポラリーダンスの趣さえ漂わせる一面もあった。

 「平均律クラヴィーア曲集第1巻」のクラヴィーアとは鍵盤楽器の総称、今はピアノかチェンバロによる演奏が大半。今回はチェンバロ風、恐らく電子楽器だろう。半音階づつ上昇する音階の長・短調、全24調のプレリュードとフーガで構成される。すなわち全48場面で綴られた。

 

 始まりはハ長調のプレリュード、グノーがアヴェマリアの旋律を付けたので、名前は知らなくとも聞けば気付く人は多い筈。分散和音による上昇音型の繰り返しは明るい未来を感じさせるが。

 うさみがいがらしに語りかける。うちの店で一番発注ミスかましているのは店長じゃないか。俺とかいがらしさんが発注した時は廃棄ロスが少なく、いい線いっている。何年店長やっているか知らないが、あんなに発注スキル低いままでいられるのが逆にわかんないって感じゃないですか。

 ハ長調のフーガ。いがらしとうさみの対話。店長はここ数年セックスレスではないか。その噂、俺も聞いたことあるんですけど、本当なんですか。ていうか、その噂流してるの俺だけどね。

 

 客1は、よく真夜中に現れて主にアイスを買って行く。自分自身も深夜のコンビニに寄ることに疑問を持つが、寄った以上は何かを買わなければと思っている。それを見ていがらしは、客が全員バカだと思っている。うさみも同調する。

 みずたには新人、俳優をやっている。初対面なのにバイトたちは素っ気ない挨拶を交わす。うさみは、最初にやってもらいたいことは掃除、清潔感はコンビニの命と指導する。いがらしは、チャラチャラとやればいいよ、てきとうにね。間違ってもバカみたいにまじめにやる必要ないからね。

 客2はたまに現れて、こんな不毛な仕事を文句も言わないでやるのかと嫌味を言い、何も買わずに帰る。最後にしっぺ返しを食らう。

 まみやSVは、このコンビニの発注量が少ないと怒る。他にないぞ、こんなバカな店。廃棄ロスよりチャンスロスを心配しろよ。

 ある日、みずたにが客1に「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」が発売されると告げる。前進の商品が販売停止になって意気消沈していた客1は大いに期待する。しかし期待は裏切られ、善意で伝えたみずたには窮地に立たされる。

 

 残すは後二つ。ロ短調のプレリュード。店長が切れる。なんだよー、やってられないよー、まったくよー、ふざけんなよー。

 淡々と平均律第一巻が進んできて、この場面にだけシンセドラム音が重なる。もちろんバッハの音楽にそんなものはないけれど、音楽も店長に加勢した。持って行き場のない上下からの圧力の爆発。

 この場面の身体表現で、ダンサー・振付家のマースカニンガムが思い浮かんだ、特に晩年の。2回見ただけだが、2回目は移動式のレッスンバーを携えながら、上半身主体で踊っていた。既に下半身は自由にならなかったのだろう。それが思い浮かんだ。これは演出でなく、もう振り付けだ。

 最後、ロ短調のフーガ。客2の悲惨な様子、バイトの痛烈なしっぺ返しは劇場で確認されたい。

 

 岡田の観察は微に入り細を穿つ。コンビニの内情を想像できても、実際の所はどうだか。しかし、ここで描かれた全てのことはあり得るそうだ。しかも、全体的に喜劇調だから観ていて面白い。廻り回って自虐的とも言えそうだが。ここで止まっても、良質な笑いを楽しめる。

 思いを一歩進めればかなりやばい世界が描かれている。暗澹たる日本の未来を予感させるとも言える。そういう意味で、『地面と床』『現在地』と焦点の当て方こそ異なるものの、深い所に迫っている。大きな問題を感じさせる。大雑把に言えば、自由主義経済の傷口を暴きだす試みと言える。

 ところで、なぜ「平均律第1巻」か。学究的な匂いが強い、音楽の旧約聖書とも讃えられるこの曲集に岡田は何か含みを託したか。恐らくそれはない。強いて言えば目くらまし、細分化された全48場面を違和感なしに繋ぐためだろう。

 いや話は逆で、「平均律第1巻」を選んだから全48場面の構成に仕上げざるを得なかったのだ。「ゴールドベルク変奏曲」ならば、「インヴェンション」ならば、どのような仕上がりになっただろうか。演劇と音楽の関係も興味深い。

 最初に観たチェルフィッチュの「フリータイム」では、思わず劇場を飛び出そうと思ったほど、その身体表現に違和感を感じたが、今はなくなった。切れかかった店長の身体表現を筆頭に、スパイラルを一周して一段上に到達したと感じた。バッハの効果もありそうだ。

 

 大きな見えざる者に対して怒れる若者が求められている。その時のために、身も心も鍛えておいて欲しい。チャラさの中にそのことを、岡田は埋め込んだような気がする。

   (2015年1月7日記録)

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2015年1月 1日 (木)

随想:2015年元旦 --- 敗戦後70年

 新年の横浜は雪がちらついています。となれば何かの一つ覚えですが、万葉集の掉尾を飾る大伴家持の歌が思い浮かびます。

  新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重け寿詞(よごと)  巻20-4516

 この歌は「重く沈んだ憂鬱の調べを奏で出している(詩の自覚の歴史・山本健吉・筑摩書房)」と言われます。それを知らなくても、心より新年の寿ぎを醸し出しているとは感じられない不思議な歌です。

 この歌は、天平宝宇3年(759)元旦に因幡国庁で詠まれています。この歌作を最後に家持の歌は記録上は絶えるそうです。生涯を終えるのは26年も後の世であるにも関わらず。

 前掲書は、「橘奈良麻呂や大伴吉麻呂等の、反藤原、反仲麻呂の意識は、政治の上ですぐ行動に転化出来る。だが、彼等の暴発を愚かと見た家持の、反藤原ならぬ反律令性的反骨は、行動に容易に短絡することの出来ない思いであった。そしてそれが彼の鬱悒の、あるいは悽惆の、根源に横たわる撥(はら)いがたきものであった。」と続きます。

 

 昨年暮れ、今さらですがインドシナ戦争関係の書籍「地雷を踏んだらサヨウナラ・一ノ瀬泰造」他4冊を読みました。従軍写真家・記者の記録あるいは追悼ですから、「国を守る気概」を追い求めたものでなく、民間人の、末端兵士の日々の様子を綴っています。そこから気付くことは、「国を守る気概を持てという人」と「国を守らされる民間人や末端の兵士」との差です。そもそも民間人や末端の兵士は国に内包されない、いわば捨て駒に等しいということです。

 沖縄・ひめゆりの塔や知覧・特攻平和会館で感じたことに似ています。弱いものへ、より弱いものへとしわ寄せする構造でしょうか。為政者や周辺にたむろする者たちが「国を守る気概」などと言い出したら、自分は国に内包されているかを考えてみたらどうでしょうか。内包される者に対して酷いこと・いい加減なことは言えないでしょう。内包されないなら国は守る対象になりうるでしょうか。

 

 遠き世の歌人から近代の戰爭に跳びましたが、平和な世の中の希求こそ時代が変わっても求められることでしょう。今年は敗戦後70年。こんな記念年は願い下げですが、覆せない事実ならば大いに考える糧とします。

  徴兵は命かけてもはばむべし母祖母おみな牢に満つるとも  石井百代

   (2015年1月1日記録)

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