随想:2015年元旦 --- 敗戦後70年
新年の横浜は雪がちらついています。となれば何かの一つ覚えですが、万葉集の掉尾を飾る大伴家持の歌が思い浮かびます。
新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重け寿詞(よごと) 巻20-4516
この歌は「重く沈んだ憂鬱の調べを奏で出している(詩の自覚の歴史・山本健吉・筑摩書房)」と言われます。それを知らなくても、心より新年の寿ぎを醸し出しているとは感じられない不思議な歌です。
この歌は、天平宝宇3年(759)元旦に因幡国庁で詠まれています。この歌作を最後に家持の歌は記録上は絶えるそうです。生涯を終えるのは26年も後の世であるにも関わらず。
前掲書は、「橘奈良麻呂や大伴吉麻呂等の、反藤原、反仲麻呂の意識は、政治の上ですぐ行動に転化出来る。だが、彼等の暴発を愚かと見た家持の、反藤原ならぬ反律令性的反骨は、行動に容易に短絡することの出来ない思いであった。そしてそれが彼の鬱悒の、あるいは悽惆の、根源に横たわる撥(はら)いがたきものであった。」と続きます。
昨年暮れ、今さらですがインドシナ戦争関係の書籍「地雷を踏んだらサヨウナラ・一ノ瀬泰造」他4冊を読みました。従軍写真家・記者の記録あるいは追悼ですから、「国を守る気概」を追い求めたものでなく、民間人の、末端兵士の日々の様子を綴っています。そこから気付くことは、「国を守る気概を持てという人」と「国を守らされる民間人や末端の兵士」との差です。そもそも民間人や末端の兵士は国に内包されない、いわば捨て駒に等しいということです。
沖縄・ひめゆりの塔や知覧・特攻平和会館で感じたことに似ています。弱いものへ、より弱いものへとしわ寄せする構造でしょうか。為政者や周辺にたむろする者たちが「国を守る気概」などと言い出したら、自分は国に内包されているかを考えてみたらどうでしょうか。内包される者に対して酷いこと・いい加減なことは言えないでしょう。内包されないなら国は守る対象になりうるでしょうか。
遠き世の歌人から近代の戰爭に跳びましたが、平和な世の中の希求こそ時代が変わっても求められることでしょう。今年は敗戦後70年。こんな記念年は願い下げですが、覆せない事実ならば大いに考える糧とします。
徴兵は命かけてもはばむべし母祖母おみな牢に満つるとも 石井百代
(2015年1月1日記録)
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コメント
旧年中は大変お世話になりました。
深野さんのように見識のある方から学ぶことはたくさんあります。
今年もよろしくお願いいたします。
「国を守る気概」で戦死を強要されるような国に、
また向かっていく可能性を感じずにはいられません。
先の大戦前と雰囲気が似ている、と聞きますし、、、
一個人にできること、
いかに潔く死ぬかではなく、いかに生きのびるか、
を常に考えていきたいです。
生きのびた先人達のおかげで今があるのですから、
学びとることはまだまだいっぱいあるはず。
投稿: 原田(ハマトリーツ) | 2015年1月 2日 (金) 10時27分
昨年はお疲れさまでした。今年も出来ることをひとつづつ実現していきましょう。
全世界の国民は平和のうちに生存する権利を有することが憲法により確認されています。ということを私は確認したいと思います。
投稿: fukanok | 2015年1月 3日 (土) 10時56分