演劇:チェルフィッチュ「地面と床」
作・演出 岡田利規
音楽 サンガツ
舞台美術 二村周作
出演 安藤真理 美智子(由多加と由紀夫の母・死者)
矢沢誠 由多加(長男)
青柳いづみ 遙 (由多加の妻)
山縣太一 由紀夫(次男)
佐々木幸子 さとみ
会場 神奈川芸術劇場・大スタジオ
公演 2013年12月14日(土)~23日(月・祝)
鑑賞 2013年12月14日(土) 17:00~18:30
遠からず地面に行く者として、大きなものを投げかけられた思いがする。
上手から下手まで延びる幅広の低い台が据えられ、すなわち床。覆われない舞台は地面。
床の上手端に、白色の中華鍋を伏せたような物が置かれ、外れた所に姿見と呼べる背の高い鏡が下手に向けて置かれている。その向きによって、客は鏡の意識が稀薄だ。照明が入るまで、私は小さなブースが置かれていると思っていた。
舞台中央、床の後方に字幕投影のスクリーン、形状は横長の十字形。英語と中国語の台詞が常時投影され、時々、場面説明などの日本語も投影される。海外公演を考慮したこともあるだろうが、日本語の抱える問題、あるいはグローバルな関係などを顕在化させる役割も帯びていると後で判る。
美智子は死者。このことから、上手端の白い物は塚、姿見は墓標ともイメージできる。ところで、死者の登場する舞台を幾つか観てきた。例えば、ソーントン・ワイルダー「わが町」、柳美里「魚の祭」、長谷川孝治「家には高い木があった」。各々が家族というものに肉薄して、興味深かった。
しからば本作もその範疇に括れるかと言えば、どうもそうでない。
時代を正視すれば、そこから逸脱せざるを得ないだろう。核家族化、階層化、貧困化、言語コミュニケーションの劣化。香り付けとして戦争の予感、収束できない原発事故。現代社会に潜在・顕在する多くの問題のただ中におかれた家族。それを死者と生者、エスタブリッシュメントとプアーのすれ違う対話を通して鮮明にする試み、と捉えた。
初めて観た「フリータイム」と比べれて、身体表現も随分と変化している。イメージとして能が連想される。死者である母親の登場からすれば三番目もの「姨捨」か。しかし、そう感じる理由は内容と言うより、身体表現の間に置かれる「間」、沈黙が支配する時間だ。舞台を沈黙が支配してしまう状態に、日本的な物を感じた。あるいは、陰に日向になるサンガツの音楽に、囃子・地謡の存在が重なったと言うことだ。
ストーリーは遥が中心。遥と美智子、すなわち生者と死者の対峙。遥と由紀夫、すなわちエスタブリッシュメントである由多加の妻、お腹に子供が宿る、とプアーの対峙。美智子と由紀夫、すなわち死者とプアーは同調。それらの間で旗幟鮮明にならない由多加。
遥とさとみ、引篭もりのさとみは対峙と言うより一方的な自己主張。現在の各々の立場が先はどうなるか判らない、しゃべりに追いつかない字幕に母国語がもっとメジャーだった方が良かった、生まれてくる赤ちゃんにこんな言葉を教えてはダメ。この場面で、家族と社会問題が交錯する。あるいは、水村美苗「日本語が亡びるとき」の存在を感じる。
さとみの身体表現に、以前のチェルフィッチュの面影が残る。
いろいろ判ったようなことを書いたけれど、ここで表現された多くを私は判っていない。判らないことが判って、判ることをもうあきらめようとも思うけれど、それも良くない。現実が劇的なものに先行する現在、岡田利規とチェルフィッチュは多くの警告を発している、いや言い過ぎか、顕在化させていると思う。次の機会も出向くだろう。
(2013年12月24日記録)
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