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2013年12月

2013年12月31日 (火)

2013年回顧(4)  音楽 

 神奈川フィルをメインにして、気の赴くままにコンサートに出かけた。他ジャンルにも出没しているので、その数はそれほど多くないけれど。

   1.神奈川フィル定期 第286~294回(287回を除く)
   2.神奈川フィル音楽堂シリーズ 武満徹と古典派の名曲第1回
   3.みなとみらいクラシック・クルーズ Vol. 47・48・50
   4.D.チマローザ「秘密の結婚」
   5.J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリン全6曲演奏会
   6.コムラードマンドリンアンサンブル 第41回定期演奏会
   7.バッハの見た世界
   8.波多野睦美 朝のコンサート
   9.ブリュッヘン・プロジェクト第1回
   10.神奈川芸術劇場「N oism1 ZAZA~祈りと欲望の間に」

 

 神奈川フィルは後回しで、まず「みなとみらいクラシック・クルーズ」、安価な料金で様々な音楽を楽しく聴かせてくれる。大いに勉強にもなるのだが、途中から行きそびれてしまった。来年は足繁く通いたい。

 「秘密の結婚」、会場はみなとみらいホール・小ホールと限られた空間だったが、ここに大道具を入れてオペラを上演するなんて。出演者・関係者の熱意にまず敬意を表さないといけないと思った。

 「無伴奏ヴァイオリン全6曲演奏会」、昨年に続いて2回目。前半3曲からは淡々とした味わいが。後半3曲からは劇的な味わいが。曲間の話で、「パルティータ第2番は受難物語。ソナタ第3番は鐘が鳴り響いて聖霊化。パルティータ第3番は天国」とか。単なる器楽曲だけど深いものがある。

 「コムラードマンドリンアンサンブル」、アマチュアの団体。縁あって5回ほど聴いた。多少のばらつきはあったように思うが、高いレベルを保持していることは判る。鈴木静一作品の全曲演奏と言う高い目標を掲げて継続していることが、何よりも素晴らしい。

 「バッハの見た世界」、寺神戸亮と曽根麻矢子のデュオ。二人が教職者であることからも、多少、学究的な意味合いが感じられるかと思っていたが、それは微塵もなかった。J.S.バッハやヘンデルはともかく、ピリオッド奏法でコレッリやヴィターリが生で聴けるとは。至福の時間。

 「波多野睦美 朝のコンサート」、プログラムにない「さくら」で始まった。隣接の掃部山公園の桜を目の当たりにして付け加えてくれたのだろう。その心遣いのように、やさしい歌声が次々と。何よりこの人の声が好きだ。

 「ブリュッヘン・プロジェクト第1回 」、ベートーヴェンの交響曲第2番・第3番。初めて聞いた時はリコーダー奏者だったが、目の前には車椅子で登場、介助を受けて指揮台に移動したブリュッヘンが居た。彼我の時の流れを残酷と感じた。しかし、18世紀オーケストラと共に紡ぎ出す音楽を聴くと、時の流れは偉大だとも思った。深い信頼関係は一朝一夕に築かれるものではない。最初で最後のブリュッヘンと18世紀オーケストラを聴けたことに、大いなる感謝の意を捧げたい。

 「Noism1 ZAZA~祈りと欲望の間に」、舞踊だけれどここで。J.S.Bach《ヴァイオリン協奏曲第1番第2楽章 Andante》に振付けたモダンダンスなど。いずれも、とても緊張感を強いられた。それが楽しくもあるが、遊び的要素が少しあっても良い。選んだ音楽によりそうだ。しかし、神奈川公演があれば必ず出かけたいし、いずれは本拠地の新潟リュートピアへも。注目すべきカンパニー。

 「神奈川フィル」、一年間、大いに楽しませて貰った。繊細な弦、朗々と菅、輝く打。294回で、何か違和感があったとつたない感想を書いたところ、ゲスト・コンマスから謙虚な望外のリプライを頂いた。いつも聴いているから、それがイレギュラーとは判るし、何かを考えるきっかけであって、それ以上のことはなかったのだけれど。でも、耳を(目か)傾けて頂いたことに感謝するとともに、ますます応援したい気持ちが強くなった。
 有志の「We Love 神奈川フィル」にも加えて頂いてアフターコンサートも充実しすぎ。来シーズンからの新体制も楽しみだ。

 かくして一年が終わろうとしている。美術展等に関する回顧が間に合わなかったけれど、年内はこの辺で。後半にブログ更新が滞ったけれど、来年は気合を入れなおしてつたない文章を綴ろう。

 読んで頂いた皆様の、新年のご多幸を祈念して、2013年を終わります。ありがとうございました。

   (2013年12月31日記録)

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2013年回顧(3)  演劇2 MODE、チェルフィッチュ、etc.

 利賀サマーシーズン2003以外の演劇鑑賞は以外に少なかった。全てをリストアップが可能だ。

   

   1.MODE公演「城」 
   2.RUKADEN Produce R3「跫(あしおと)/不完全犯罪」
   3.ハイバイ「月光のつつしみ」
   4.神奈川芸術劇場「愛のおわり」日本版
   5.タイニーアリス「韓国新人劇作家シリーズ第二弾」
   6.劇団MODE「失踪者」
   7.劇団MODE「審判」
   8.劇団MODE「城」
   9.チェルフィッチュ「地面と床」

 

 3月のMODE公演「城」を除けば、残る全ては9月以降の鑑賞、意識したわけではないが随分バランスが悪かった。

 劇団MODEは、SCOTと並んで最も古くから親しんできた劇団、チェホフ・ベケット・近松などが思い出される。7年前くらいからだろうか、カフカに取り組んできた。12月の数週間で「失踪者」「審判」「城」を連続上演したのは集大成だろうが、まさに快挙。3月の「城」公演は、連続上演に向けての布石だったのだろう。
 いずれの演目も数回観ていて、以前に比べてあっさり目と感じたことが無きにしも非ずだが、でもカフカの世界は十分に堪能できた。主人公が、カール・ロスマン(失踪者)、ヨーゼフ・K(審判)、K(城)と匿名性を高める、というよりはアイデンティティ喪失の過程だろう。今、連続上演する意義はそこにあると捉えた。

 

 チェルフィッチュ「地面と床」も、様々な社会問題を背景に置いて重みある内容。以前より、若者たちからの問題提起の意識が強かったが、今回はより大きな問題提起が為された。特徴ある身体表現は後退して随分と穏やかになった。変りといっては何だが「間」の重視が特筆される。これからも変化を続けるだろうが、その様子を追い続けよう。

 

 「月光のつつしみ」は、岩松了の古い戯曲。日頃は養生シートを被せてある人の本質をむき出しにしたらどうなるか。役者の凄さを感じさせられた。
 凄さを感じさせられたのは「愛のおわり」も同様。二人しか登場しないに等しい役者が、下手奥から上手手前に引かれた一本の仮想線上で、限られた身体表現と激しい言葉で対峙する。2時間余の間、緊張感を切らすことがなかった。
 いずれも、平田オリザの周辺で活動する演劇人たちと認識している。

 

 「跫(あしおと)/不完全犯罪」「韓国新人劇作家シリーズ第二弾・ピクニック/罠」は、韓国若手演劇人と日本演劇人とのコラボレーション。ことさらコラボレーションを意識しなくとも、内容で十分に見せていた。韓国も日本も人々の考え・行動に大きな相違はないと実感できる。相違が有るとすれば国の形。小劇場というささやかな場ではあるが、こういう関係は末永く続くことを願いたい。

 

 今年は、考えさせられる重厚な芝居を観てきたと言える。意識した訳でなく、悪いことでもないけれど、来年は小劇場系で、若い人の紛れ込みたい思いがしている。むらっ気が有るのでどうなるかは定かでないが。

   (2013年12月31日記録)

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2013年回顧(2)  演劇1 富山県南砺市利賀村のこと

 8月末、3年ぶりに「SCOT サマー・シーズン」に出かけた。もう行かないと決めた訳ではないけれど、今回が最後になるかも知れないとの思いがあった。初めて電車利用で富山へ移動、そこからレンタカーで利賀村へ。横浜から自動車で利賀村に向かうのも少々きつくなった。

 2000年に至る10数年間、夏休みは「利賀国際演劇フェスティバル」で過ごした。2000年だったと思うが運営が変わり、一般向け公演は半減、国際も看板から下ろされ、同時に「利賀演劇人コンクール」が始まったと記憶する。コンクールも公開の筈だが、それでも1日1演目(?)しか観れないのは、夏休みとするのは充実感に欠ける思いがした。1年おきに出かけたりするようになった。

 この四半世紀で20回弱程出かけているのでが、他にやりたいことも増えた。利賀村の吸引力も一頃よりは弱まった。

 ところで、今回は2日間で5演目を鑑賞した。内容に興味あれば、第1日目第2日目のブログ記事を参照願う。

  1.高田みどりの打楽器と高野山南山進流聲明
     「羯諦羯諦-行く者よ、去り行く者よ」
  2.岩舞台で繰り広げられる前衛漫画劇
     「新釈・瞼の母」
  3.インターナショナルSCOT公演・第1弾
     「禿の女歌手」(6カ国語版)
  4.世界を震撼させたギリシア悲劇
     「ディオニュソス」
  5.これを見ずして、日本は語れない
     「世界の果てからこんにちは」

 演劇ばかりでなく、利賀村の変遷も見てきた。最初に出かけたのは1988年、演劇祭のピークを少し過ぎた頃だった。それでも会場中央の広場には出店が出て、村の行事の雰囲気さえあった。民宿への帰り道、蛍の乱舞、夜空に天の川も見えた。直ぐに河川護岸工事があったりして蛍は消え、夜空もどんどん明るくなった。過疎の村の都会化とも言える現象。

 今は廃屋も散見され、四半世紀厄介になってきた民宿も夫婦も年を重ね、いずれは子供の所に行く、利賀を離れると言っている。

 演劇で過疎化を喰い止められるとは思いもしないけれど、利賀村に行きだしたことで、それ以前より、過疎化の問題も圧倒的に身近に感じるようになった。

 全ては自分の意思による行動だが、演劇鑑賞も、様々な社会勉強もさせて貰った気がする。民宿では色々な人と出合った。観て来た演劇を肴に、夜更けまで酒を飲み、話し合っていた頃が懐かしい。その中から野外劇場でスポットライトを浴びることになった人もいるし、縁が続いている人もいる。
 自分なりに四半世紀の重みと、一抹の寂しさを感じている年末である。

   (2013年12月30日記録)

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2013年12月30日 (月)

2013年回顧(1)  ヴェルディ・ ワーグナーと世阿弥 

 2013年は G.ヴェルディ と R.ワーグナー の生誕200年の年。と言って私は、琵琶湖ホール・神奈川県民ホール合同企画の「椿姫」「ワルキューレ」を、県民ホールで鑑賞したのみ。年一度の企画の筈だが、一年で二度楽しめたのは県民ホールの改修工事が2014年春を挟んで予定されていたため。でも、オペラの両雄が並び立った。

 いずれも、指揮:沼尻竜典、オーケストラピットには神奈川フィル(ワルキューレは、日本センチュリー交響楽団との合同オーケストラ)。
 「椿姫」のタイトルロール・砂川涼子は、声量充分、クリアーでドラマティック。カーテンコールの控えめな仕草に、もっと胸を張って良いんだと叫びたかった。
 「ワルキューレ」、福井敬(ジークリンデ)は欧州の歌手に比べると華奢に見えるが、歌唱は堂々、あちらにもこちらにも出演する訳がわかる。横山恵子(ブリュンヒルデ)は、戦乙女のドラマティックな歌唱と、神界を追放される薄幸な境遇の歌唱と、双方に惹かれた。

 

 国内に目を向ければ、世阿弥の生誕650年の年。横浜能楽堂企画の「時々の花」の3回シリーズ、各回は

  第1回 青春の巻 能「敦盛」
  第2回 朱夏の巻 能「井筒」
  第3回 玄冬の巻 能「檜垣」 

だった。通しチケットを入手したが、第1回目は利賀フェスティバルとバッティング、見られなかったのが残念。「井筒」「檜垣」は、2時間前後を要する大曲。

 「井筒」は、世阿弥自身が「上花也(最上級の作品)」と自賛するほどの自信作であったそうだ。「風吹けば沖つ白浪竜田山 夜半にや君がひとりこゆらん」と謡う若い女性が主人公。シテは梅若紀彰、後シテは紫の長絹に飾り糸のついた初冠で清々しかった。伊勢物語の世界が浮かび上がった。

 「檜垣」は老女物で能の中で重きを置かれる曲。美しい白拍子として多くを魅了した老女の霊が、生前の業に苦しんで僧に助けを求める内容。シテは野村四郎。後シテの枯れた様になお女性を留めていて悲しい。
 前説の歌人・馬場あき子が、「能は男の芸能なのに、秘曲に老女もの」のような話をした。異性に仮託して、男性の人生をあぶりだしていると受け止めた。

 「井筒」「檜垣」は共に三番目もの、幽玄味の濃い複式夢幻能に世阿弥を感じたような感じないような。能の世界を理解するにはなお多くの時間を要するが、少しづつ伝統芸能の世界に踏み込む感触があって面白さも感じる。

 

 オペラと能、音楽を伴う身体表現という観点に共通性がある。ただし、音楽に連続と断続、身体表現に動と静の対比がある。洋の東西の差かとも思える。両極端なものを観ているようで、案外閉じた円環の端と端で、結局は両隣とも思った。来る年も、どちらかに絞り込むことをせずに良いと思われるものを適宜鑑賞しよう。

   (2013年12月30日記録)

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2013年12月25日 (水)

演劇:劇団MODE「城」

  原作    F.カフカ
  構成・演出 松本修
  音楽    斉藤ネコ
  振付    井手茂太

  出演    K(測量士) 笠木誠
        フリーダ   山田美佳 ほか

  会場    座高円寺
  公演    2013年12月14日(土)~18日(水)
  鑑賞    2013年12月16日(月) 19:00~21:50(休憩10分) 

 城に雇われた測量士・Kは、城のある雪深い村にようやくたどり着き、空部屋がないと言う宿屋の酒場で眠らせて貰う。翌日、城を目指すが辿り着けない。やがて、Kの直属上長は村長だと知るが、村長は測量士など全く必要としていないと言う。
 Kは色々な出来事に遭遇する。城の役人が泊まる宿屋のホステス・フリーダに一目ぼれしてカウンターの下で愛し合ったり、学校の小使いとして雇われたり。測量士としてこの地を訪れた筈なのに。そして、常に誰かに見張られている。

 

 劇団MODEによる「城」は、2005年の新国立劇場、本年3月のあうるすぽっと、そして今回と三度の公演があり、三度とも観る機会に恵まれた。未完の不条理な長編小説の劇化、三度も観るほど面白いかと言われれば、面白いと答えざるを得ない。

 舞台奥の上手から下手まで2階相当の作業床、左右に階段、柱で支えているので下部の移動は自由。これは連続上演された「失踪者」「審判」と基本的に同じ構造だが、左右が斜め前方に向けられているところは異なる。これは多くの部屋を有する宿屋などをイメージしてだろう。それにドアーの作り物で、宿屋や事務室を表現する。鑑賞に不足することのない最小限の舞台作り。それがまず面白い。

 笠木誠は不条理に巻き込まれてもがくKの雰囲気を巧みに醸し出して熱演と感じたが、それは笠木の素朴で多少とぼけた雰囲気が相乗していると思う。山田美佳も淡々と演じて、新しい世界に逃れたい幸薄い女性が反って良く伝わってきた。
 俳優は25人が登場する。笠木を除いて一人何役もこなす。ベテランは重厚さをもって舞台に深みを与えるし、若手の軽快さも心地よい。全体にうまく噛合っているし、また噛合うように仕上げたと思う。
 私は熱心とは言えない劇団MODEのファンだが、四半世紀に渡って時々鑑賞する機会があった。役者、特に主演女優も変っているが、家族的な雰囲気は健在だと思う。それが次に面白い。

 カフカの死後に出版された未完の長編三部作、今回は執筆順に上演された。すなわち、「失踪者(1912年)」「審判(1914年-15年)」、そして「城(1922年)」。第一次世界大戦は1914年-18年、カフカはプラハのユダヤ人家庭に生まれている。三部作の主人公は各々、カール・ロスマン(失踪者)、ヨーゼフ・K(審判)、K(城)と匿名性が、というより個性喪失の進行過程だろうと。
 それがカフカの心境と結びついているか、考察は今後の私の課題。今、劇団MODEがカフカ三部作を連続上演するのは偶然だろうか。私は必然と感じた。現実が劇的なものに先行する現在、今の機会を逃しては遅きに失するだろう。こう言うことを考えるのも面白い。面白いは語弊あるかも知れないけれど。

 

 三部作の各々の作品が興味深く、各々の主演・助演の俳優達が味わい深かった。もちろんスタッフを含めて。そのことを前提にして、やはり意義は三部作連続上演にあったと感じる。心しよう。

   (2013年12月25日記録)

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2013年12月24日 (火)

演劇:チェルフィッチュ「地面と床」

  作・演出  岡田利規
  音楽    サンガツ
  舞台美術  二村周作

  出演    安藤真理   美智子(由多加と由紀夫の母・死者)
        矢沢誠    由多加(長男)
        青柳いづみ  遙  (由多加の妻)
        山縣太一   由紀夫(次男)
        佐々木幸子  さとみ

  会場    神奈川芸術劇場・大スタジオ
  公演    2013年12月14日(土)~23日(月・祝)
  鑑賞    2013年12月14日(土) 17:00~18:30

 

 遠からず地面に行く者として、大きなものを投げかけられた思いがする。

 上手から下手まで延びる幅広の低い台が据えられ、すなわち床。覆われない舞台は地面。
 床の上手端に、白色の中華鍋を伏せたような物が置かれ、外れた所に姿見と呼べる背の高い鏡が下手に向けて置かれている。その向きによって、客は鏡の意識が稀薄だ。照明が入るまで、私は小さなブースが置かれていると思っていた。

 舞台中央、床の後方に字幕投影のスクリーン、形状は横長の十字形。英語と中国語の台詞が常時投影され、時々、場面説明などの日本語も投影される。海外公演を考慮したこともあるだろうが、日本語の抱える問題、あるいはグローバルな関係などを顕在化させる役割も帯びていると後で判る。

 美智子は死者。このことから、上手端の白い物は塚、姿見は墓標ともイメージできる。ところで、死者の登場する舞台を幾つか観てきた。例えば、ソーントン・ワイルダー「わが町」、柳美里「魚の祭」、長谷川孝治「家には高い木があった」。各々が家族というものに肉薄して、興味深かった。

 しからば本作もその範疇に括れるかと言えば、どうもそうでない。
 時代を正視すれば、そこから逸脱せざるを得ないだろう。核家族化、階層化、貧困化、言語コミュニケーションの劣化。香り付けとして戦争の予感、収束できない原発事故。現代社会に潜在・顕在する多くの問題のただ中におかれた家族。それを死者と生者、エスタブリッシュメントとプアーのすれ違う対話を通して鮮明にする試み、と捉えた。

 初めて観た「フリータイム」と比べれて、身体表現も随分と変化している。イメージとして能が連想される。死者である母親の登場からすれば三番目もの「姨捨」か。しかし、そう感じる理由は内容と言うより、身体表現の間に置かれる「間」、沈黙が支配する時間だ。舞台を沈黙が支配してしまう状態に、日本的な物を感じた。あるいは、陰に日向になるサンガツの音楽に、囃子・地謡の存在が重なったと言うことだ。

 ストーリーは遥が中心。遥と美智子、すなわち生者と死者の対峙。遥と由紀夫、すなわちエスタブリッシュメントである由多加の妻、お腹に子供が宿る、とプアーの対峙。美智子と由紀夫、すなわち死者とプアーは同調。それらの間で旗幟鮮明にならない由多加。

 遥とさとみ、引篭もりのさとみは対峙と言うより一方的な自己主張。現在の各々の立場が先はどうなるか判らない、しゃべりに追いつかない字幕に母国語がもっとメジャーだった方が良かった、生まれてくる赤ちゃんにこんな言葉を教えてはダメ。この場面で、家族と社会問題が交錯する。あるいは、水村美苗「日本語が亡びるとき」の存在を感じる。
 さとみの身体表現に、以前のチェルフィッチュの面影が残る。

 

 いろいろ判ったようなことを書いたけれど、ここで表現された多くを私は判っていない。判らないことが判って、判ることをもうあきらめようとも思うけれど、それも良くない。現実が劇的なものに先行する現在、岡田利規とチェルフィッチュは多くの警告を発している、いや言い過ぎか、顕在化させていると思う。次の機会も出向くだろう。

   (2013年12月24日記録)

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2013年12月13日 (金)

演劇:劇団MODE「審判」

  原作    F.カフカ
  構成・演出 松本修
  音楽    斉藤ネコ
  振付    井手茂太

  出演    ヨーゼフ・K  斎藤歩
        監視人ヴィレム 小嶋尚樹
        画家ティトレリ 福士恵二
        弁護士フルト  高田恵篤
        聖職者     宮島健
        グル-バッハ  石井ひとみ
        洗濯女     山田美佳  、他

  会場    座高円寺
  公演    2013年12月7日(土)~10日(火)
  鑑賞    2013年12月9日(月) 19:00~21:20(休憩10分)

 

 舞台奥の上手から下手まで2階相当の作業床、左右に階段、柱で支えているので下部の移動は自由。門を思わせる大きな作り物が左右に置かれているが、これは場面ごとに移動する。あとは、小道具を役者が持ち込んだり・持ち出したりして場面転換する。まるで「失踪」の舞台そのままと言って良いのだが、当然のことながらまったく別の世界が生まれる。

 舞台中央手前にベッド、その奥にドアー。銀行員ヨーゼフ・Kは、30歳の誕生日の朝目覚めると、見知らぬ二人組みの訪問を受けて、逮捕されていると告げられる。理由は知らされない。その様子を、天井近くから数人が眺めているのが不気味。一瞬で演劇と現実が交錯するのは、演出意図の内だろう。そして今、カフカ三部作を上演する意義も象徴しているようだ。

 ヨーゼフ・Kは隣室で監督に面会、不当逮捕を言い立てるが、それまでと変らず勤めに出て良いと言われ、傍らには同僚三人が立っている。30分ほどの遅刻で、彼らと共に銀行に辿り着く。日常に戻ることで不条理さが充満する。

 

 全体の印象は疾走、テンポ良く進行したと感じた。ただし、同行の妻は刈り込みすぎとの感想をもらした。同じものを見ても、受け止め方は各々だ。

 ちなみに、2007年は途中と千秋楽の2回鑑賞、公演中に正味3時間が15分ほど短縮している。その時の印象を『休憩後の最初の場面の印象が変わりました。前回の印象を『ヨーゼフ・Kの笠置(ママ)誠は、見えざる何かに対峙する焦燥感を良く感じさせます。』と書きました。ぎらぎらするような演技で、権力と対峙する表現でした。しかし、今回は、ぎらぎら感が薄れて、権力に対する諦観のようなものが垣間見えました。これが後半、淡々と進行するように感じる伏線のように思います。』と記録した。

 今回の上演時間は2時間10分ほど、テンポ良くも、刈り込みすぎも的を外していない。妻は「初めて見る人は判りにくい」とも言っていた。カフカの迷宮感は薄れているかも知れない。ただ、MODEは「かるみ」の世界に向かっているとも言えそうだ。確かに、他の小劇場系より客席には年配者が多いし、何の根拠もないが、MODEと一緒に年を重ねてきた人が多いようにも感じた。それを前提にしたコミュニケーションは十分に成立していると言えそうだ。

 ヨーゼフ・Kを演じた斎藤歩、理不尽に巻き込まれる実直な銀行員が良く伝わる。それは、ベテラン達の脇役の重厚な演技が支えていたとも言える。ここはベテラン達を大きく讃えたい。登場する役者は24名、ヨーゼフ・Kを除いては何役も兼ねていて、お疲れさま。

 音楽は、トランペットをフィーチャーしたジャズコンボと捉えたが、オリジナル曲か何かの音源を利用したかは判らない。大聖堂の場面では荘厳なオルガン曲が響いた。踊りは、控え目であった。

 最後、大聖堂でヨーゼフ・Kと聖職者が対峙する場面、2階への階段が正面に据えられ、その前に作り物の門が置かれた。私の位置からは、階上の聖職者が全く見えず、さながら天井から降る声のみが響くようであった。ここは姿を見たい所。

 全裸にされたヨーゼフ・Kが階段を上り、ポーズを付けられたあげくに心臓にナイフを突き刺される。そして「犬のようだ」と叫ぶ。
 全ては、この叫びに向けてクレッシェンドしてきた。深い意味を考えよう。

   (2013年12月13日記録)

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2013年12月 6日 (金)

演劇:劇団MODE「失踪者」

  原作    F.カフカ
  構成・演出 松本修
  音楽    斉藤ネコ東欧ユダヤ系のクレズマー音楽
  振付    井手茂太

  出演    カール3、他  笠木誠
        カール5、他  泉陽二
        カール4、他  小谷真一
        カール1、他  江藤修平
        カール2、他  力徳朋   他

  会場    座高円寺
  公演    2013年12月1日(日)~4日(水)
  鑑賞    2013年12月1日(日) 17:00~19:50(休憩10分)

 

 「MODEカフカ・プロジェクト2013」と銘打ち、「失踪者」「審判」「城」を半月余りで連続上演する。2001年の「アメリカ(失踪者)」を皮切りに、カフカ作品をたびたび取り上げてきたMODE。2007年には「審判」「失踪者」を連続上演している。それにしても、過去上演では3時間以上を要した3部作の連続上演は衝撃だ。

 折りに触れてMODOを観てきた私としては、3部作連続上演を知った時点で、それが無謀か快挙か、見届ける義務があるように感じていた。MODEがカフカを取り上げなければ、恐らく私がカフカ作品を読むことはなかっただろう。この刺激に満ちた作品、暗雲漂う現代にも通じる作品に触れた喜びは大きい。「読んでから観るか、観てから読むか」、どちらからでも繰り返せば、一歩づつカフカの迷宮にはまり込んでいくだろう。

 

 舞台奥の上手から下手まで、2階相当の客席に向けて凸状の作業床、柱で支えているので下部の移動は自由。上・下手に固定の、中央に移動可能な階段が架けられている。場面転換は、テーブル・椅子などの小道具を役者が持ち込んだり・持ち出したりして行う。これだけの大道具小道具で、ニューヨークに入港した船のデッキにもなるし、ホテル・オクシデンタルのエレベーター・ホールなどにもなる。

 井手茂太振付の変な踊りが、場面転換で効果的に使われる。変な踊りは賛辞。ここで本格的なダンスを用意したら全てがぶち壊しになる。照明を落としての場面転換ばかりでは愛想がない。しゃれっ気があって素人っぽい、変な踊りがマッチする。
 蛇足だが、みんなが踊ると、その振動が客席に伝わる。(ちょっと立派過ぎる)小劇場の連帯感が感じられる。

 斉藤ねこのクラリネットをメインにした東欧ユダヤ系のクレズマー音楽も、もうのうい感じを充満させて雰囲気を盛り上げる。
 ここに取り上げないスタッフも含めて、チームワークの良さが感じられる。

 

 さて役者。配役表で数えれば26人の出演、一人が6・7役を兼ねる。主人公のカール・ロスマンは、5人が場面ごとに交代で演じ、2番目は女性。混乱しないかと問われたら、混乱しないと答えよう。もちろん、全ての役を認識しないが、主要な役は追いかけられる。原作も読んだし、2007年の上演も観ているからかも知れないけれど。

 カール・ロスマン3を演じる笠木誠が中心。他の演目で何回か見る機会があったけれど、彼は朴訥な表現の下手巧。2007年は他の役者が演じていたけれど、カフカの迷宮的な雰囲気に良くマッチする。
 他の役者も全体的に下手巧と感じられるけれど、これは演出や創作方法にも関係するのだろう。小嶋尚樹、宮島健のベテランも味わい深い。カール・ロスマン2を演じた力徳朋がフレッシュ。クララを演じた太田緑ロランスはちょっと目立ちすぎと感じたのは、いつになく前方席に位置取りしたからか。彼女の責任と言うより、華を隠し切れないと言って良いだろう。場を改めて観たい気がする。

 

 自分の意思に従う限りは寛大な叔父ヤーコブに、時の為政者を思う。オクラホマ劇場の団員募集の場で、白い天使たちが高い所でトランペットを吹き鳴らす場面は印象深い。しかし、面接官たちが頭に角を生やし、お尻に尻尾を生やしているのは先行きを暗示しているのか。身分証明書を持たないカール・ロスマンも何とか合格し、汽車でオクラホマへの長い旅を開始する。

 2007年より上演時間が30分ほど短縮されている。細かく記憶する訳ではないから比較できない。ただ、随分とすっきりした仕上がりになっていると思う。「審判」「城」も期待できそうだ。

 結論のないカフカの世界に今を重ねる。日曜日夕方開始にもかかわらず、客席はほぼ埋まっていた。演劇の楽しさを知る人たちが寄り集まったと感じられた。ささやかな楽しみが、奪われることのない未来に繋げなければならない。

   (2013年12月6日記録)

注:音楽に関して、MODE制作より指摘を頂きましたので、訂正してお詫びいたします。多少の疑義を抱いていましたが、確認せずに記載してしまいました。読んでいただいた方にもお詫びいたします。

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2013年12月 2日 (月)

演劇:タイニーアリス「韓国新人劇作家シリーズ第二弾」

1.「ピクニック」
  作    キム・ヒョンジョン
  演出   金世一
  出演   母親      久保庭尚子
       女       生井みずき
       映像・人形遣い 前川衛

2.「罠」
  作    ホ・ジンウォン
  演出   鈴木アツト
  出演   カメラ屋の客  本家徳久
       カメラ屋の店員 保亜美
       カメラ屋の店長 広田豹
       警察官     加藤亮祐

  会場   タイニーアリス
  公演   2013年11月27日(水)~12月1日(日)
  鑑賞   2013年11月28日(火) 15:00~17:00
  参考   公式HP

 

 三作品のうち二作品を組み合わせて上演している。今回見られなかった一作品は、作:イ・シウォン、演出:荒川貴代の「変身」。

 

1.「ピクニック」

 作品を貫く主題は、「老人性痴呆の進んだ母親。我が子を亡くしながら、母親を見続けて来た娘。緊張と弛緩を繰り返しながらも二人は生き続けなければならない」と言うことだろう。

 芸達者な二人の対峙は、いやがおうにも緊張感を高める。母親の髪の毛を掴んで引きずり回すような、激しい瞬間もある。弛緩した状態は、二人とも真っ白な衣装に着替えて表現する。亡くなった子供は操り人形で演じるが、母親は虚実の境で認識し、女には深い傷跡として残っている。

 家族単位が小さくなって、一人一人が分担する役割が大きくなっていることは事実だ。多くが直面する、韓日の、洋の東西を問わない普遍の課題のように思える。社会の変化と言ってしまえばそれまでだが、ホ・ジンウォンが大きな課題に果敢に挑戦した意欲は十分に感じられた。ただ報道等で知る現実世界が、実はもっと劇的であることをどう捉えるか。その辺りが窺えるようになると、より興味は増すだろう。

 

2.「罠」

 カメラ店のカウンター。閉店間際にやって来た客が、昨日白いカメラを買った筈だが、箱の中身が黒だったので交換可能かと訊ねる。店員が、もちろん交換可能だと言うが、何かそれ以上を要求したそうな客。その煮え切らない態度に手を焼く店員。店長、警官を巻き込んで、言葉の戦いが続く。

 キャスター付きカウンターは舞台上を自由に移動・回転し、客と店員の位置関係は固定しない。そればかりでなく、言葉の戦いの優劣ささえ暗示するように動き回る。現代の様相を巧みに取り込んだコメディーだが、店員役の保亜美(たもつあみ)の存在が時代を特定していると感じた。

 

 どちらも現代をよく観察した作品。韓国も日本も、生活や考え方の差は無くなりつつあるのだろうか。恐らくそうなのだろう。ただ、そこで留まっているように感じられ、そこから如何にはみ出して行くか、それを今後期待したい。「韓国新人劇作家シリーズ」と銘打った舞台だが、韓国を除いたとしても十分通用すると思う。国同士の関係がギクシャクする中、ささやかであっても、このような企画が継続することは貴重だ。さらなる発展を祈念しておく。

  (2013年12月2日記録)

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