« 2013年9月 | トップページ | 2013年11月 »

2013年10月

2013年10月27日 (日)

美術:愛知トリエンナーレ2013・まとめ(2013年10月17・18日)

 愛知トリエンナーレ2013を、2013年10月17・18日の二日間に渡って鑑賞した。感想は既に、岡崎地区松本町会場岡崎地区東岡崎駅・康生会場名古屋地区各会場の三回に分けて掲載した。

 ここでは全体的な印象をまとめる。ただ、私はアート関係者でも行政関係者でもない。2000年の越後妻有アートトリエンナーレ、2001年の直島スタンダード展あたりから興味を抱き、その後、各地のトリエンナーレ等に出かけて来た一愛好者にすぎない。
 
 
 名古屋地区は、愛知芸術センター、名古屋市美術館を丹念に、長者町地区と納屋橋地区は駆け足で、名古屋テレビ塔や栄周辺のビルなどは見落とし以前に予定外であった。失礼とは思うが、二日間の限られた時間では作品の集中する場所が鑑賞の主体になる。台風の影響で急遽一日ずらしての行動も、余裕のなさに結びついた。

 総括すれば、華がなかったように思う。私の脳裏には2010年の草間弥生が浮かぶ。草間作品には、大いなる既視感を抱くけれど、それを超越した存在とも感じる。建物前に置かれた水玉模様の自動車、10階入り口に置かれた水玉模様の花、それだけで華やぎを感じた。
091 092

 それに匹敵する作者はいただろうか。オノヨウコか、ヤノベケンジか。二人は多くの作品展示があったけれど、草間弥生の存在とは何か異なる。若い人たちに、カリスマの片鱗を輝かせる作者がいただろうか。私は気付かなかった。
 
 
 2013年テーマ「揺れる大地-われわれはどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」を感じさせる作品に何があったか。

 愛知芸術センター、宮本佳明の《福島第一原発神社》《福島第一さかえ原発》があった。荒ぶる神様に、気の遠くなるようなお賽銭を投げ入れ続けなければならないことは事実だ。絶対安全から世界一安全に格下げしてなお取り繕おうとする為政者もいる。できるなら、アートで荒ぶる神様を鎮めてくれると良いのだが。天の岩戸の前で踊ったアメノウズメの命のように。

 名古屋市美術館、アルフレッド・ジャーの《生ましめんかな(栗原貞子と石巻市の子供たちに捧ぐ)》は、広島・長崎まで遡って原爆・原発に迫る。ジャンルを越えた本歌取りで記憶に鮮やかだ。

 納屋橋地区、クリスティ・ノルマンの《戦後 Ⅰ 5月9日戦勝記念日。タリン市の中心にある兵士の銅像前での儀式。》他は、大国の周辺で揺れる小国、自然災害とは異なる意味の揺れる大地を現して興味深かった。前に言及しなかったので、ここで紹介しておく。
002 003
 
 
 テーマと直接関係しない作品にも印象に残る作品があった。

 納屋橋地区、名和晃平の《フォーム》。さりげない素材で意表を突く作品。いつまでも見ていたい思いがした。子供にも判る素材で作品を仕上げ、衝撃を与えたことに共感を覚えた。

 岡崎地区を新たな会場に加えたのは良かった。八丁味噌倉しか知らなかった私に、限定的ではあるけれど、異なる一面を教えてくれた。松本会場の魅力は、力強く生きてきた庶民の存在と感じさせた。アートがそれを知る介添えになるなら、それはそれで素晴らしい。

 康生会場、studio velocity/栗原健太郎+岩月美穂の《Roof》は、アートかパフォーマンスか定かでないが、分類することに意味はない。繰り広げられていた光景に労働の原点を感じた。手の先にりんごやみかんがあるようだった。
 
 
 旅行の目的がアートであることは素晴らしい、と自分で思う。そこで素晴らしい作品が一つでも二つでも見つかれば、なお素晴らしい。今回、心から感動する作品があっただろうか。どうも事実がアートの先を行く現状では、アートの後追い感が拭えない。愛知トリエンナーレに限らないけれど。

 トリエンナーレ形式の美術展も目白押し、愛知でなければ出来ないことって何なのだろうか。私にとって愛知と言えば、粗密はあっても数十年の間、仕事で行き来した海辺の町なのだけれど。掘り起こすべきものは沢山あるような気がする。
 元気であれば3年後にまた出かけよう。つい先ほど閉幕したばかりだけれど。

   (2013年10月27日記録)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月26日 (土)

美術:愛知トリエンナーレ2013・名古屋地区各会場(2013年10月17・18日)

 愛知トリエンナーレ2013鑑賞の続き、名古屋地区の各会場について、何らかの思いを抱いた作品について纏める。

 

 栄の愛知芸術文化センターは、名古屋市美術館と共に主会場と言って良いだろう。8階、10階、2階、地下2階などが展示スペースになっていた。

 ヤノベケンジは《クイーン・マンマ》《太陽の礼拝堂》《サン・チャイルド》。他に多数の作品が10階に。初めて観る作品も少なくないけれど、他所で観たものもあって既視感は強い。かなりの展示スペースを占めているけれど、半分くらいを若い作者に回してあげても良いと思う。ヤノベ自身に関係ないだろうが。
012 013 014

 ダン・ペルジョヴスキは《ザ・トップ・ドローイング:》。11階の展望回廊で青空への落書き。天気も良く、気持ち良い光景を楽しんだ。
016

 宮本佳明は《福島第一原発神社》、~荒ぶる神を鎮める~との副題。山川草木にも神を感じた遠い祖先に比べ、私たちは恐れを忘れていただろう。しかし、万人等しく反省することが必要かと問えば、それはない。かって「絶対安全」と言い、大きく後退させて今「世界一安全」と甘言を言う、歴代の為政者たちこそ責めを負うべきだ。そんなことを考えさせられたインスタレーション。
 《福島第一さかえ原発》は、福一原発を芸術文化センターに入れたと想定し、床壁による切断面を、幅広テープで描いた労作。ただ、表現は難しい。案内掲載のイメージをよく頭に刻み込んでの鑑賞必須。この強大なものが暴走している事実を改めて認識させられた。芸術に多々目的があっても良いけれど、誰かは社会正義を追求すべきだろう。ささやかではあるが、支持者の一人に加わりたい。
017 018 018a

   ペーター・ヴェルツ+ウィリアム・フォーサイスの《whenever on on on nohow on | airdrawing》。フォーサイスは最高峰に位置する振付家の一人。ソロで踊るフォーサイスを、3台のカメラと左右の手先に付けた2台カメラで捉え、5チャンネルの映像で見せるインスタレーション。無理を承知で本物を見たい。フォーサイスが中空に書き記す作品タイトルは、ベケットの『いざ最悪の方へ』に由来するとは今知った。準備不足な鑑賞者であった。
019 020

 キッズ・トリエンナーレ。小分けしてもらった絵の具を、学生たちが嬉々として壁に塗り重ねていた。壁の暗色は減算混合と、身をもって勉強しただろうか。いや、楽しければそれで良い。
021 022

 

 名古屋市美術館。藤森照信の《空飛ぶ泥舟》。待ち人多くて中には入らなかったけど、楽しそう。
006 007

 アルフレッド・ジャーは《生ましめんかな(栗原貞子と石巻市の子供たちに捧ぐ)》。チリ生まれでニューヨークを拠点に活動する作者は、原爆詩の代表作の一つとされる、詩人・栗原貞子の「生ましめんかな」をどうして知ったのだろうか。それを、東日本大震災で廃校になる中学校の黒板で再現した。消える命と羽ばたく命を。本歌の崇高さに迫るアルフレッド・ジャーに拍手。
008 009

 

 長者町地区、奈良美智を初めとするザ・ウィロウズ《WE-LOW HOUSE》。外郎ハウスだ。入り口部分は写真の通り。奥に喫茶店、ギャラリー。ギャラリーは展示替えがあったかも知れないが、当日は奈良と同期の作家たちの若き日の作品展示、何人かの作品に面影を確認したが、今記憶するのは有元利夫のみ。きちんとメモしないと、忘れるのが早いのだから。
010 011

 

 納屋橋地区、名和晃平の《フォーム》。光りを落とした部屋の中で、水面から泡を隆起させるインスタレーション。一瞬たりとも同じ形を留めない、吹けば飛んでしまう泡に、圧倒的な迫力を感じた。
004 005

   (2013年10月25日記録)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月24日 (木)

美術:愛知トリエンナーレ2013・岡崎地区東岡崎駅・康生会場(2013年10月18日)

 愛知トリエンナーレ2013鑑賞の続き、岡崎地区の松本会場を除いた2会場について纏める。

 

 名鉄東岡崎駅の駅ビルおよび駅前に、規模は小さいが作品展示があった。

 駅前に《オノ・ヨウコ:生きる喜び》。この会場以外、例えば名古屋TV塔にも。参考にヨコハマトリエンナーレ2011の作品も並べておこう。記された言葉に力強さはないが、陳腐化した言葉をあえて持ち出すことに意味があるということか。とりたてて刺激されることもない。映像で見ただけだが『カット・ピース(Cut Piece)』の頃の切れ味を感じない。名誉展示か。
001 002 003

 東岡崎駅の小さな駅ビルの2階に《ゲッラ・デ・ラ・パス:シークレット・ガーデン》。ゲッラとデ・ラ・パスの二人組み、ゴミ処理場行きの衣類を主な素材として、当地への挨拶を作り上げた。他に《ブーンスィ・タントロンシン:ブロウイング・ジョブ(写真なし)》。
004

 

 康生会場は、東岡崎駅から徒歩15分ほど。歩いた範囲で一番賑やかな市街地。徳川家康の生誕地・岡崎城の城下町、東海道の宿場町として発展してきたそうだ。しかし、ショッピングセンターや空き店舗などを利用して作品展示可能な現状があった。

 宝金堂西側空地に《レッド・ペンシル・スタジオ:ふたつの断片》。空き地の左右の建物に張り渡した紐は、かってあった建物の形を再現していた。路上観察の原爆タイプの3Dタイプ。天気の加減もあっただろうが、作品自体が判りにくい。
005

 春ビルに《アリエル・シュレジンガー:Untitled (Inside out urns)》、《同:The kid》。壊れたガラスとそれを通して写した写真を重ねて展示。欠けた陶器を石膏(?)で繋ぎ合わせた作品を展示。
006 007

 旧連尺ショールーム《平川祐樹:Missing River》。天上に吊るした小船の底は破れて、床に透過した光りが模様を描くインスタレーション。それと、砂地の満干の様子を写したビデオ、床には砂が敷き詰められていた。物皆無に帰す流れを押し留めることは出来ないが、自然は永久に運動を繰り返すことは伝わった。
008 009 010

 岡崎シビコは周辺で一番大きな商業ビル、その空き階・屋上を利用しての作品展示。買い物客が行き交う日常とアートの同居を面白いと言うべきだろうが、それを可能にした現状にこそ目を向けるべきだろう。

 《バシーア・マクール:エンター・ゴースト、エグジット・ゴースト》。段ボールのビル、ビルを連ねて市街地を作るインスタレーション。創造たくましく廃墟を思い浮かべようとしても、ちょっと無理。作品中に長い通路が付けられているけど、いっそ迷路をさまような形ならどうか。
011

  《向井山朋子+ジャン・カルマン:FALLING》。音楽や光などを使った展示と、ボランティアによるパフォーマンス(やっていなかった)の構成。これも廃墟を思わせるが展示だけでは限界がある。ベケット『いざ最悪の方へ』に着想したパフォーマンスを併せて見たかった。
012 013

  《志賀理江子:螺旋海岸》。写真を立て看板上にしてフロアを満たし、作品中の通路を徘徊する作品。時間の関係もあって丹念に観ること出来ないのが悪いのだろうが、まとまった感想を形成できなかった。
014

 《studio velocity/栗原健太郎+岩月美穂:Roof》。会場入り口にサングラスがたくさん置いてあった。当日は曇っていたので気付かなかったが、エーゲ海の民家のように真っ白に塗られた(行ったことは無いけど)屋上は、陽が出ていれば相当にまぶしいだろう。数人の男女が、脚立に乗って空に何かを取り付けているように思った。手先に何も見えないから見せ掛けの作業と思い、それはそれで面白く感じた。
 しかし、手先を注意深く見ると、釣り糸のようなものが天上のように格子状に張り巡らされ、そこに短い糸を結びつけていた。徒労とも思える作業を延々と続けることに、少し未来を見る思いがした。仕事に貴賎はないと言うが、戦争ビジネスや派遣ビジネス、行き過ぎた金融が真っ当な仕事なのだろうか。私はそんなことが頭に浮かんだ。途中階の作品が暗い印象だから屋上に出て一つの救いを見た。岡崎地区、いや愛知トリエンナーレ2013で大いに刺激を受けた作品の一つ。青空の下で見たかった。
015 016 017

   (2013年10月24日記録)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月22日 (火)

音楽:神奈川フィル第293回定期演奏会

  指揮     広上淳一
  独奏     ダニエル・ホープ(Vn)
  演奏     神奈川フィルハーモニー管弦楽団

  曲目     B.ブリテン : ヴァイオリン協奏曲
         M.ラベル  : カディッシュ(ソロ・アンコール)
         G.ホルスト : 組曲「惑星」

  会場     横浜みなとみらいホール(1階13列22番)
  公演     2013年10月18日19:00~21:00(休憩20分)

 

 ブリテン、ホルスト、ダニエル・ホープと揃えばイギリス・デイ、いやイギリス・ナイト。取って付けたような組み合わせでもおかしいし、大幅に編成替えのある組み合わせではスタッフも忙しいだろうし、プログラムを作るのも豊富な知識と多くの苦労がありそうと思う次第。

 

ブリテン・ヴァイオリン協奏曲

 ダニエル・ホープは大柄で、ヴィオリンが子供用の分数ヴィオリンに見えた。そして、紡ぎだす響きは柔らかだが、ぐいぐい押して行く力強さがあった。

 例えば、第1楽章。最初の独奏ヴィオリンは、歌うようにやさしく響かせて、一気に引き込まれてしまった。第2主題からはぐいぐい押して、緊張感は大いに高まった。第2楽章のカデンツァでは、テクニックの冴えが伝わってきた。

 自国の大作曲家の作品、ダニエル・ホープの得意とするところだろう。神フィルのサポートも手堅い。

 あまり意識して録音を聴いたことはなかったが、目の前で繰り広げられる演奏を心して聴けば、これは名曲の類に含めて良いと思った。名演奏ゆえに曲が引き立ったとも言えるが。至福の一時になった。

 

ホルスト・組曲「惑星」

 1階席からはメンバーの前列は判っても、奥は重なって良く判らない。第1ヴィオリンは前列に5プルト、奥に2プルトの計14名と見えた。ヴィオラが10名、コントラバスが7名。全体で100名はいないと思うが、オルガンにも灯りが点って、前回の「アルプス交響曲」に続いての大編成。

 第1曲「火星」の冒頭のリズムが執拗に繰り返されれば、一気にホルストの世界であり、神フィルの世界に入り込む。短い間で音楽に没入させてくれる曲・演奏が、良い曲であり、良い演奏と思う。

 第4曲「木星」の次々に登場する主題、それまでの各曲にまして朗々と管、たゆたうように弦。第4主題、一般的には、平原綾香の「ジュピター」と言った方が通りは良いだろうけど、何とも美しい旋律が奏でられた。この辺りが佳境。

 第7曲「海王星」の女声合唱、どのパートか判らないが、ちょっと浮き出て響いた。全体のボリュームは、もう少し抑えて良いように感じた。合唱メンバーは舞台脇の左右二階席に分かれて配置されたことも影響しているだろう。指定は舞台外だが、二階席ではないだろう。遠い宇宙の果てに、消え入るような感じが薄れた。

 全体的に、2台のティンパニーやパーカッション、ホルンを筆頭とする管楽器が、入れ替わり立ち代り見事に響かせる。ヴァイオリン、チェロのソロもあり、弦も重厚な響きを押し出してくる。部分部分を取れば美しいのだが、何か一つ引っかかるものがあるとすれば、終わり方かもしれない。

   (2013年10月21日記録)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月21日 (月)

美術:愛知トリエンナーレ2013・岡崎地区松本町会場(2013年10月18日)

 愛知トリエンナーレ2013に行ってきました。一泊二日の駆け足、見落としも多々ありますが、全会場を一通り回りました。まずは、一番最後に訪れた岡崎地区松本町会場から。

 名鉄東岡崎駅から、真っ直ぐ歩けば30分近くかかるでしょうか。松本町会場は猫の額ほどの地域ですが、魅力的な会場でした。作品はともかく、その一角が。なんて言ったら横面叩かれそうですが。

 

 一角の中心が松應寺。その変遷は後に判ることですが、周辺の家並みを一目見て、昭和中期の面影を色濃くとどめていることに気付きました。一角のレイアウトはP字を左右反転した形に通路が出来ています。縦棒の下側が入り口。
001

 アーケードを進むと正面に松應寺。振り返るとスナック・琥珀があって、夜になれば営業しているとか。アーケードを良く見れば、木造です。
002 003 004

 アーケードの途中から左に折れると、正面に聖徳太子殿があります。
005

 

 作品展示は空き家を利用した3点。

 「旧今代」は、《丹羽良徳:日本共産党でカール・マルクスの誕生日会をする》のビデオ・インスタレーション。中京地区の共産党議員がコメントしているような内容だったけれど、良くは見なかった。ビデオ・インスタレーションは、よほどのことがなければ、付き合いきれない。しかし、かってこのような人目に付かないようなところで活動していたのだろうと、妙にリアリティを感じました。
105 106 108

 「旧入舟」は、《山下拓也:床?S?M〆の入舟》。二階の床板などを外して構成するインスタレーション。良く出かける横浜黄金町バザールなどでも多く見かけるタイプ。既視感がありました。
111 112

 「旧あざみ美容室」は、《青木野枝:ふりそそぐもの/旧あざみ美容室》。鉄を切り抜いて構成するインスタレーション。円形に切り抜いた鉄は、意外に柔らかな感じ。切ない思いも感じられました。
102 103

 

 どのような経緯で、この一角がトリエンナーレ会場に選ばれたのか、それをとても興味深く感じました。アーケードを見ても、昭和20年から30年代の作りでしょう。そして、作務衣を来た僧侶と思われる方が、孫だろう子の手を引いてふっと現れたりする。この光景に、アートは脇役に回るしかないでしょう。

 空き家の増えた一角、かっての賑わいを取り戻すことは無いでしょう。しかし、たくましく生き抜く人たちの光芒を、訪れた人たちに垣間見せる手伝いが出来たとすれば、アートの本望でないかと思えるのです。

   (2013年10月20日記録)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月16日 (水)

演劇:神奈川芸術劇場「愛のおわり」日本版

  作・演出  パスカル・ランベール
  日本語監修 平田オリザ
  翻訳    平野暁人

  出演    兵頭公美
        太田宏
        赤い靴児童合唱団

  会場    神奈川芸術劇場・大スタジオ
  公演    2013年10月11日(金)~14日(月祝)、全4公演
  鑑賞    2013年10月14日(月祝) 14:00~16:10(休憩なし)
  参考    公式HP

 

 倉庫状の直方体、床の半分が舞台、半分が200強の階段状の客席。満席。年配者も少なくない。
 公演の冠を記せば「青年団国際演劇交流プロジェクト2013 ジュヌヴィリエ国立演劇センター・こまばアゴラ劇場国際共同事業 『愛のおわり』 日本版」となる。ランベール、平田オリザ、青年団の二人の役者が揃えば、小劇場系演劇の最も核心部分が窺える、との期待だろう。

 

 舞台には何も無い。強いて言えば、奥に観葉植物状の物体が離れて二つ、置かれている。照明も上部からのべたなもので、アクセントは無い。

 女が下手奥から登場、上手手前まで真っ直ぐに進んで立ち止まる。遅れて男が登場、照明スイッチをオンにして、同じ線上を進むが直ぐに立ち止まる。二人は10mほど離れて対峙する。基本的に、この線上から外れない。

 男が女へ、辛らつな言葉で別れる理由を一方的に投げつける。たまに、間を詰めることはある。女は立ち尽くしたまま、最小限の身体表現、うなだれる・見上げる・涙ぐむ・上半身を折り曲げる、で反応する。思わず何歩か詰め寄ろうとすれば、男に制せられる。

 少女合唱団が練習のために入ってくる。指定されたスタジオのようだが二人が居るので、一曲だけ、練習することの許しを請う。三部ほどの無伴奏で「海」を歌う。
 歌っている間に、二人は時計回りに半周して位置を替える。

 女は男へ、男が投げかけた言葉を茶化しながらも、別れの言葉を一方的に投げつける。男は、限られた身体表現で感情を表出するが、やがて立っていられなくなって身を投げ出す。

 最後、観葉植物と思っていた鉢植え、実は大きな羽飾りの帽子だが、二人は被る。

 

 舞台は、P.ブルック(*1)の言う「裸の舞台」だ。
 もう少し言葉を借りよう。「ひとりの人間がこのなにも無い空間を歩いて横切る、もう一人の人間がそれを見つめる---演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ」。芝居が始まって束の間、この言葉が浮かんだ。

 そぎ落とす物などない舞台、男と女、場面転換としての少女合唱。これで130分の演劇が成立した。しかも、一瞬たりとも緊張を切らさない。傑作・名演だ。

 まず、作・演出を讃えたい。
 長い平均台上の演技のようで、落ちればそこで中断しそうな緊張感を終始保つ。発話者と身体表現者は、文楽の太夫と人形遣いの関係が、役割分担して二人の心の深奥を炙り出すようだ。一方的な言葉のつぶては、一発殴られるより大きなダメージを相手に与える。もし対話形式を選択していれば、これほどの張り詰めた状況にはならなかっただろう。

 二人の役者も大きく讃えたい。
 男は、前半約1時間の長台詞、後半約1時間のストイックな身体表現。女は、前後が入れ替わる。ともすれば単調になりそうな状況だが、決してそこに落ち込まない。緊張を持続して、130分を長く感じさせない。
 問題があるとすれば長台詞の際の身体表現か。ほとんで手しか使えない状況で、左右に広げてひらひらさせることもあった。芸もないように思えるが、雰囲気を壊さなければそれで良いかも知れない。

 

 ところで二人は何をしていたのか。芝居だろうか、現実だろうか。
 男が登場して照明のスイッチを自らの手でオンにするのは、実はスタジオの天井灯を灯しただけ。少女合唱の登場が端的に示すように、そこは共用空間、二人が別れを告げるための特殊な場所ではない。二人が最後に被る羽飾りの帽子は何か。

 決して特殊でない、誰にもでも不意に訪れる「愛のおわり」が示されたに過ぎないのだろう。みなさん、幸せの絶頂と思えても、くれぐれも油断をめされるな。

 

  *1 なにもない空間 P.ブルック 高橋康也・喜志哲雄訳 晶文選書32

   (2013年10月16日記録)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月 2日 (水)

音楽:神奈川フィル第292回定期演奏会

  指揮   沼尻竜典
  独奏   石田泰尚(Vn)
  合唱   神奈川フィルハーモニー合唱団
  演奏   神奈川フィルハーモニー管弦楽団

  曲目   ストラヴィンスキー:詩篇交響曲
       グラズノフ    :ヴァイオリン協奏曲イ短調
       チャイコフスキー :感傷的なワルツ(ソロ・アンコール)
       R.シュトラウス  :アルプス交響曲

  会場   横浜みなとみらいホール(1階13列22番)
  公演   2013年9月27日19:00~21:20(休憩15分)

 

「アルプス交響曲」

 編成は、ビオラ12、コントラバス8。他の弦や管は重なって数が判らないが、スコアどおりだっただろう。パーカッションは4で1多い。演奏終了後に挨拶で登場したバンダは9。とにかく舞台狭し。

Alps 曲は大きくは5分される。始まりが「夜・日の出」。クラリネット・ホルン・弦がppで持続音を奏で、ファゴット・弦がppで夜の動機(右図参照)(*1)を示す。繊細にして饒舌な夜の静寂が瞬く間に客席を覆う。金管が夜目にも堂々たる荘厳な山容を描写。太陽が少しづつ上り始める輝ける日の出が全合奏で描写される。

 主要部に入り、まず「登り道」。低音弦で力強く歩き出す様が描写される。この主題は、後に要所で出現。力強いだけでなく軽快な演奏は、どんどん高度を上げえる登山者の後を追いかけているようだ。この後、様々な事物に遭遇。森に入り、花の牧場を経由して山頂に立つ。下山途中の嵐。

 そして「日没、夜」。夜の帳が漂い始め、再び、繊細で饒舌な夜に包まれる。印象的なフィナーレ。

 神奈川フィルは、標題を髣髴させる印象深い演奏を展開した。ある時は輪郭明瞭、透明感のある一枚の風景画を描き出す。ある時は足元を追いかけ、激しくぶれる動画のようだ。

 繊細で力強い弦が曲の魅力を支え、管が輝きを増した。冒頭のファゴットは美しいばかりでなく、一瞬のうちにR.シュトラウスの世界に引き込む。「森への立ち入り」におけるヴィオリン・第1プルト、「危険な瞬間」のチェロソロ、いずれも短いけれど美しい。「頂上にて」のオーボエソロもしっかり聴いた。ホルン・トランペットも輝かしい。
 珍しい楽器のヘッケルフォーンは、その姿も音も認識できなかったのが残念。

 沼尻竜典と神奈川フィルは輪郭鮮明なアルプスを描き出した。両者の相性は良いと思えた。


「詩篇交響曲」

 定期で取り上げない限り聴くチャンスのない曲。早く聴くべきであったと思うことも少なくないが、今回はそれもない。演奏の良し悪し以前に、曲への興味が喚起されない。そういう曲もある。

 気になったのは合唱の精彩不足、この合唱団に好感を抱くが。オーケストラのすぐ後ろが定位置だが、今回はオルガン前席。それも関係するのか、クリアさ後退、音が籠った。

「ヴァイオリン協奏曲イ短調」

 ソロ・コンサートマスターを独奏者に迎えてのグラズノフは、やや小品とも言えそうな曲。内容は堂々としたものだが。

 演奏は、谷間にひっそりと咲く繊細で気高い花を思わせた。技巧的なカデンツァ。オーケストラに同質の響きがあるのは当然、ハープの響きも魅力的。

 仲間を守り立てる暖かさが感じられて良いものだ。ましてや、ソロ・コンサートマスターをソリストに迎えてのコンチェルトに悪い要素などある筈がない。あっという間に終えた思いだ。

  *1 引用:オイレンブルク・スコア
        リヒャルト・シュトラウ スアルプス交響曲 (株)全音楽譜出版社

   (2013年10月1日記録)

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年9月 | トップページ | 2013年11月 »