歌劇:ヴェルディ「椿姫」 (やや長文)
作曲 ジュゼッペ・ヴェルディ
指揮 沼尻 竜典
演出 アルフォンソ・アントニオッツィ
配役 ヴィオレッタ:砂川涼子
アルフレード:福井敬
ジェルモン :黒田博
フローラ :小野和歌子 ほか
合唱 びわ湖ホール声楽アンサンブル、二期会合唱団
菅弦楽 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
会場 神奈川県民ホール(3階6列20番)
公演 2013年3月23日 14:00~17:00(休憩25分、20分)
「乾杯の歌」などを心待ちする気持ちは抱いていたとして、歌だけで2時間余は満たされない。劇としての興味もまた重要、演出が重みを持つ所以である。
椿姫の本来の時代設定は19世紀半ばだが、初演が1853年だから、その時点では同時代性を前提に成立していただろう。
演出のアントニオッツィは、時代を近代に設定した。それは19世紀半ばという時代より、同時代性を重視したからだろう。私達が生きる現在に近づけた。その場合、高級娼婦の存在が不安定になる、としておこう。
近代の象徴は、例えば、第一幕、直線的に構成される近代建築の趣を漂わすヴィオレッタの館。第二幕、ヴィオレッタの着るツーピースのスカートのルーズ感は、昭和中期の印象。
第一幕の夜会の場面。フローラがドレスを脱いでスリップ姿、そして馬になり男性がまたがって歩む。続いて、誰だったかが、ソファークッションの皮を破いて中身を撒き散らす。歌劇では見慣れない演技のようで印象に残ったが、この流れはフェリーニの映画「甘い生活」の終了近くの場面に基づいている。映画ほど退廃的に描いてはいないけれど。
無料配布されるプログラムの演出家ノートに、時代を1960年に設定した等の記述があった。しかし、舞台から得られる情報と、自からが持つ知識を照らし合わせてそれが確認できるか、近代とまでは判る。
近代としたことのメリットは、衣装・舞台美術がシンプルになったこと。第二幕一場から二場への舞台転換など、極めて短時間のうちに行われて驚いた。
他に気付いたこと。
序曲の途中で幕が上がると、舞台上の集団(合唱)はストップモーション、その中を抜けて二階に上がるヴィオレッタとアルフレード。二人対世間の明示か。
第一幕の集団の扱いが動的だったのに対して、第二幕二場後半では、落とした照明の中でほぼ直立。ソロを際立たせるためだろうか。
第二幕二場、上手側の空間にスクリーンが下りて、映画を写す雰囲気だったけれど、何も起きなかった。故障か、それとも演出意図どおりなのか。写されたとすれば、内容で印象も変わりそうだが。
第三幕、ヴィオレッタが二人、床に寝そべっていた。心身の各々を表す。立ち上がって歌うヴィオレッタが心を。こと切れたヴィオレッタ、すなわち身に皆は駆け寄る。
総じて演出に違和感は感じなかった。しかし、フェリーニを本歌取りするためだろうが、近代、演出意図では1960年、の時代設定が少しあいまいに感じた。いっそ現代として、差別がいまも続くこと、ひょっとしたら拡大していることを鮮明に描くほうが、より共感を与えたようにも思える。
砂川涼子(ヴィオレッタ)は、3階席から見た限り華奢とも言える体格。薄幸の女性のイメージを裏切らないが、声量は充分、クリアーでドラマティック。カーテンコールの控えめな仕草に、もっと胸を張って良いんだ、と言いたかった。他のタイトルロールも聴きたくなった。
福井敬(アルフレード)も朗々として期待を裏切らないけれど、若手の登場も待たれるところ。
合唱は第二幕後にカーテンコールだったが、最後の登場場面がないのが残念。オペラの醍醐味は合唱にあると思っているが、いつも期待を裏切らない。
神奈川フィルの繊細さは、サポートに回っても生きる。良い演奏だった。オーケストラピットに納まるメンバーも格好良い。
書くのが遅れ、皆さんのブログが出揃っているので、私は少し演出を主にまとめた。
年を重ねていてもまだ初心者、良い観客になるのもなかなか大変だ。9月の「ワルキューレ」は、しっかり予習して臨みたい。
(2013年3月28日記録)
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