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2013年3月17日 (日)

路上観察:戦跡と歴史を訪ねる沖縄旅行・第2日目(やや長文)

 第2日目は「読谷村米軍上陸の地碑」「ちびちりがま」「座喜味城跡」「今帰仁城跡」「勝連城跡」を巡った。宜野湾に面したホテルを8時30分頃に出発、同じホテルに18:30頃に帰着。

 「米軍上陸の地碑」「ちびちりがま」を探すのに迷って1.5時間ほどを余計に費やしたが、「座喜味城跡」を含めて読谷村の狭い地域に散在しているのだろう。道に迷ったためか、「中城城跡」「嘉数高台」に周れなかった。あるいは行程に無理があったのだろうか。

 

 「読谷村米軍上陸の地碑」は、泊城公園の遊歩道脇にあった。一旦素通りして、土地の方に訪ねたところ案内して頂いた。碑は比謝川河口を見下ろす小高い所にあった。河口一帯は古くからの港だそうで、この辺りの海岸線は上陸の適地だったのだろう。上陸した米軍は北部と南部の二手に別れて進撃したのは、「ひめゆり平和祈念資料館」「沖縄県平和祈念資料館」の展示でも確認した。   

 今の美しく静かな海岸線から想像は難しい。しかし、米軍艦船が埋め尽くした海岸線をたくましく想像しなければならない。そこから兵器・兵力の種類を問わず、彼我の立場を問わず、戦争を忌避する思いを強く育てなければならないと感じた。
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 「ちびちりがま」は、米軍上陸翌日の1945年4月2日に、米兵の残虐な仕打ちを恐れて、肉親相互が殺しあう凄惨な集団自決が行なわれた所、その数80数名に及ぶそうだ。史実として認識していても、目の当たりにすることでより強く印象付けられた。がまとは洞窟のこと。

 写真撮影を遠慮願うとのこと、70年近くの時が流れても関係者には拭いがたい出来事だろう。写真は近くの農道からがまの方向を望んでいる。二つの屋根は公衆トイレだが、その向こうにがまがある。左に見える道路の下側に、がまは延びているように思えた。鬼畜米英でなく、非戦闘員は保護されると教えられていれば、あるいは生き延びられたかも知れないと思った。
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 「座喜味城跡」は、15世紀初めに護佐丸が築城したとされる。沖縄戦時には日本軍の高射砲が設置され、戦後には米軍のレーダー基地が置かれたそうだ。その際に壊された一部城壁は復元されているそうで、今は美しく感じられる。しかし、史跡であり戦跡である。

 築城技術は高いと感じた。城壁の角を円弧状に仕上げてある箇所もあった。左右の円弧状の石板を、中央の楔で保持する城壁のアーチ門が見事と感じた。城壁に上ると読谷村の海岸線が見える。あの海を米軍艦船が埋め尽くしたのだろう。
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 「今帰仁城跡」は、13世紀初めの築城とされ、三山時代には北山王の居城だったそうだ。荒々しい美しさとを感じた。左右に覗き窓の付いた城門が印象深かったが、上部は平らな一枚の石板を渡したに過ぎず、技術はまだ未成熟だったのだろう。首里城を除けば、旅行中に見た城の中では一番大きいように思えた。訪れている人は多かったが、沖縄美ら海水族館も近く、観光ルートになっているかとも思った。城だけ見に来る私は少数派かも知れない。自動車で片道1.5時間以上を要したので。
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 「勝連城跡」は、13~14世紀にかけて築城されたそうだが、かなり整然とした造りと感じた。海から急に立ち上がる山の上にある。唐突だが、静岡の久能山東照宮が思い浮かんだ。広場を挟んで反対側のこぶでも復元作業が進んでいた。琉球王国に抵抗して滅ぼされた阿麻和利が最後の城主。視界は開けていなかったのが残念、天気がよければ久高島などが見えるそうだ。
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 自動車を走らせていると、何々城跡の案内が多く見られた。各地に城が築かれた時代を経ているが、こんなに多いのかと思ったほど。仮に何もなかったとしても、一度は城跡を見たい思いが募った。

   (2013年3月16日記録)

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