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2012年5月

2012年5月31日 (木)

音楽:ル・ポエム・アルモニーク「ヴェネッツィア~謝肉祭の街のざわめき」

  演奏  ル・ポエム・アルモニーク

  曲目  C.モンテヴェルディ:眠っていても
      B.マリーニ    :ソナタ第3番
      C.モンテヴェルディ:ニンフの哀歌
      F.マネッリ    :ベルガマスカ・舟の客人たち
      B.フェラーリ   :愛を知らぬ者は
                熱情に焦がされて
      作者不詳     :井戸で会った娘たち
      F.マネッリ    :カンツォネッタ・心をくすぐる眼差し
                ハカラ(ナポリ風アリア)
                チャコーナ。わが心は燃え

  会場  神奈川県立音楽堂(20列17番)
  公演  2012年5月26日15:00~16:30

 

 ル・ポエム・アルモニークの演奏会は初めて。というより、バロック初期の世俗音楽を聴いた経験がなく、あたって砕けろ的な思いでチケットを購入しました。会場が音楽堂(私の中で音楽堂と言えば、神奈川県立です)、その主催公演であることも影響しています。

 ル・ポエム・アルモニークはフランスの古楽アンサンブル、演奏内容により編成が変わるようです。当日は歌手4人、奏者6人の編成。
 歌手は、ソプラノ、テノール×2、バス。奏者は、ヴァイオリン、リローネ、ヴィオローネ、コラシオーネ、テオルボ、パーカッション、持ち替えでバロック・ギター。ヴィーオール系の楽器は膝に挟んで演奏しましたが、時にギターのように弾きました。

 舞台照明を落とし、中央後方に置かれた一対の燭台で明かるさを確保。上手・下手の奥の衝立は出番でない歌手は隠れました。衣装は上下黒のシャツ姿、女性歌手のみがくすんだ赤のシンプルなドレス。陰翳礼賛を感じました。

 歌手は簡単なジェスチャーを付けて歌います。曲は一覧で判るように、コンサートのテーマに沿って選ばれたもの。曲ごとに歌手の組合せが変わります。配布資料の言葉を借りれば『“虚構と現実”と“現実と妄想”の間を絶えず行き来』、『暗示と寓意、裏表二重の意味がいっぱい詰まっている』ですが、深い理解は得られませんでした。ベースがないので当然ですが。

 それでも楽しく親しみを覚えたのは、ヴィブラートの無い、素直で飾らない唱法です。オペラ歌手のように技巧的な、あるいは内面を大いに表出する唱法でなく、グレゴリア聖歌のように限りない透明感を感じるわけでもありません。新鮮な思いがします。街場の音楽、ヴェネッツィアのざわめきが聞こえるようだ、との思いを伝えようとしただけです。

 『舟の客人たち』は、日本風に言えば「舟がでるぞー」という掛け声で始まる楽しい曲、『愛を知らぬ者は』『情熱に焦がされて』は恋の苦しさを歌う曲。歌詞が舞台後方に投影されるので、大意が判ります。間奏曲のように演奏される『ソナタ第3番』、古楽器の音色がとても好きですが、今回のように名前をはじめて聴く楽器は、まだ音色が定かでありません。

 古学は学究的な印象があります。聴き込めば楽しさが増えるでしょうけど。皆さんもそう思うのでしょうか、客の入りは7割弱でした。もっと客の入ってよいコンサートと思いましたけど。

   (2012年5月31日記録)

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2012年5月26日 (土)

音楽:神奈川フィル第281回定期演奏会

  指揮     現田茂夫

  独奏     後藤正孝(Pf)

  演奏     神奈川フィルハーモニー管弦楽団

  曲目     リスト  :交響詩「前奏曲」
         リスト  :ピアノ協奏曲第1番変ホ長調
         ワーグナー:楽劇「ニーベルンゲンの指環」管弦楽曲抜粋

  会場     横浜みなとみらいホール(1階13列22番)
  公演     2012年5月25日14:00~16:00(休憩15分)

 

 私にとっては疎遠な曲が並んだ。さすがに、「ピアノ協奏曲第1番」は聴いたことがあるし、「ワルキューレの騎行」も聴いたことがあるけど。でも、ある意味の新鮮さが胸の中にあったことも事実だ。

 ワグナーは6曲の抜粋、「“ラインの黄金”より“ヴァルハラ城への神々の入場”」「“ワルキューレ”より“ワルキューレの騎行”」「“ワルキューレ”より“魔の炎の音楽”」「“ジークフリート”より“森のささやき”」「“神々の黄昏”より“ジークフリートの葬送行進曲”」「“神々の黄昏”より“ブリュンヒルデの自己犠牲”」。

 神フィルの今までの印象は、繊細とかクリアの思いに至る。しかし、今宵は重厚、曲にも関係するとは思うが、それでも音として表現できるか否かはオーケストラの実力次第だろう。指揮者がそれを引き出すとも言えるのだが。

 管、特にトランペットなどは突き抜けるような明るさで演奏される印象がある。今宵は、ちょっとくすんだ音色、くすんだは決してネガティブな表現ではない。日頃見慣れないワグナーチューバも魅力的だ。それが絃と相俟って重厚さに結びつくのだろう。縁の下の力持ち、コントラバスの響きも魅力的だ。ヴァイオリンやビオラのソロも含めて、繊細さが失せたわけでもない。

 楽劇「ニーベルンゲンの指環」を知らないわけではない。ただ、全曲を聴くには膨大な時間がかかるので敬遠していただけだ。6曲の抜粋を聴いて、やはり全曲を聴きたくなった。若い時はワグナーを仰々しく思っていたけど、何時の頃からか抵抗が無くなった。今では元気を分けてもらえるように感じている。年を重ねるのも悪くないと、今宵、改めて思った。

 

 前後する。交響詩「前奏曲」で重厚さの片鱗を感じた。一夜のプログラムには一貫した思いがあるのだろう。

 ピアノ協奏曲、聴いたことがあると言ってもそれほど馴染みのある曲でもない。それでも引き込まれる演奏だった。ピアノの後藤正孝は力強く、ピアノフォルテでなく、フォルテフォルテと思えるよう。技巧的な曲を鮮やかに、堂々と演奏した。まだ20代後半でしょう。リスト以外の演奏はどうなのかと興味を抱いた。
 後半、私服に着替えて、私の隣(空席)の隣の席で演奏を聴いていた。多分、間違いないと思う。前回に引き続き隣の2席が空席、昨年度までは年行ったご夫婦?の指定席だったが、どうなさったのでしょうか。見ず知らずの方たちですけど気になります。

   (2012年5月26日記録)

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2012年5月25日 (金)

随想:肩肘はらずに現代美術いや仏教美術

 まず、次の二枚の写真をご覧頂きたい。一枚は雑誌「芸術新潮 2012年5月号」の表紙、他の一枚は「宝誌和尚立像(京都・西往寺)」(注1)。
Murakami1 Murakami2

 本屋で表紙を見たときに、この立像が思い浮かびました。作年代は平安時代(11世紀)ですから、およそ1000年前に顔の中の顔というアイディアがあったということ。私の知る範囲ですから、もっと年代を遡れる似たような仏像があるかも知れません。

 顔の中の顔と書きましたが、説明には次のように記されています。『宝誌和尚中国の僧侶で、神通力のある怪異な人物として有名であった。梁の武帝が画家に宝誌の姿を写させようとしたところ、和尚は指で自分の顔の皮を裂き、そこから十一面観音が顔を現したが、慈悲や威嚇の顔に自在に変化したので描くことができなかったという。』

 とすると、顔の中の仏さんを描けなかったので、和尚の顔で代用したことになります。でも表現としては顔の中の顔。

 胸の中の仏さんを見せているのは「ラゴラ尊者坐像(京都・萬福寺)」、口から仏さんを吐き出しているのは「 空也上人立像(京都・六波羅蜜寺)」です。

 往時、美術は仏教に向かう流れが最も大きかったことでしょう。よって、斬新なアイディアと仏教が結びついた、言い換えれば仏教美術も往時の現代美術として発展してきたことになりそうです。

 気ままに美術に接してきましたけど、少しは知識を深めないと思うばかりで終わってしまいそうです。ちなみに、ここで取り上げた作品で見ていないのが村上隆だけというのも、少し笑えます。

 注1:東京国立博物館特別展「仏像 一木にこめられた祈り」展カタログより

   (2012年5月25日記録)

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2012年5月20日 (日)

随想:映画「泥の川」

 ここ数年、一年に5~10作品程度の映画を見に出かける。それ以前は、ほとんど映画を見に出かける習慣が無く、新聞や雑誌の評などで大筋の流れを知るだけだった。

 最近、古い映画を見ている。といっても映画館に出かけるわけでなく、NHK BSで放映されるもの。現在、「プレミアムシネマ(国内・外作品)」「山田洋次監督が選んだ日本の名画100本」の2シリーズ、合計すれば週に4~5作品が On Air される。それを録画し、都合の良い時間に見ているわけだが、一気に見られないので何分割にしたりもして。

 まだ多くを見ていないが、幾つかの作品が心に残った。今さら私が言うまでも無く、秀作・名作と世間で言われる作品だが。

 「泥の川(モノクロ、1981年)」、原作は宮本輝の中編小説。映画に、原作から引き去ったものはない。原作の香りを失わずに付け加えたものが素晴らしい。それが映画化の意義だろうが。戦争の傷跡を引きずりながらも生き続けなければならない廓船の一家。子供達のぎこちなさから始まる友情が、対岸で食堂を営む一家のさりげなく暖かい愛情を呼び覚ます。モノクロなのに、モノクロだからか、舞台となった大阪・安治川河口附近の描写が美しい。ある日、廓船はぽんぽん舟に引かれて川を遡って行く。食堂夫婦を演ずる田村高廣・藤田弓子のほのぼのとした役作り、廓船の加賀まり子の美しさ。子供たちの奔放な演技。すべての寄せ集まったところで静かに訴えるのは、戦争反対であろう。

 「東京物語(モノクロ、1953年)」、人口に膾炙した作品で多くを言う必要はないだろう。デジタル・リマスター版ということで画面はきれいだ。笠智衆、東山千恵子、原節子、杉村春子、他、芸達者な人が多い。家族というものは、物理的にも心情的にも離散していくものと判るが、原節子演じる次男の未亡人の心根が純粋で、爽やかで忘れ難い。誰しもが思って出来ないことだろう。蒸気機関車が通り抜ける尾道の家並みの俯瞰が美しい。

 原節子に的を絞れば、没落する名家の悲哀をテーマにした「安城家の舞踏會(モノクロ、1947年)」、林芙美子原作による「めし(モノクロ、1951年)」も印象深い。
 「紀ノ川(カラー、1966年)」冒頭の船による嫁入り場面は、これぞ映画と思える。今となっては、実写でこれだけの場面を撮影できないでしょう。

 今回は、「山田洋次監督が・・」に偏った。続きは追って。

   (2012年5月20日記録)

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2012年5月14日 (月)

美術:平塚市美術館「木下晋展」 (2012年5月13日)

 実現することは少ないが、印象深い展覧会は二回三回と出かけたくなる。一回目を会期末近くに出かけることが多いので、二回目に出かける前に大抵は会期切れになる。時間に余裕が無いわけでなし、計画的に展覧会巡りすれば良いようなものだが。

 平塚市美術館「木下晋展」は4月30日に鑑賞したが、本日、H子(妻)が観たいと言い出し、私ももう一度観たいと思っていたので、道案内を兼ねて同行した。

 H子は、2007年利賀フェスティバルからの帰路、新潟南魚沼・富岡ホワイト美術館に寄った際に木下晋を観ている。私が平塚に行ったことは承知しているが、5月11日東京新聞夕刊の「あの人に迫る」で木下晋が取り上げられて、いてもたってもいられなくなったようだ。

 

 H子の感想は断片的に聞いた。「5年前には思い至らなかったことも感じた。木下晋の社会的弱者への眼差しは本人の若き日の境遇が大いに関係しているだろう。(年老いた)母親の上半身裸の全身像は身内にはなかなか描けるものではない、それも若き日の境遇が関係しそうだ。元ハンセン病患者の詩人Sにあえばやはり驚くだろう(身内に障害者がおり、ボランティアとして様々な方にお会いしているが)、日頃からもっと強く意識していないといけない」など。

 私は前回観終えてから少し考えていた。木下晋は、対象が社会の隅に置かれた人たちに向かった時に最も真価を発揮するのではないか。それは今日、納得した。対象と木下の緻密な表現方法が、両者を引き寄せ合っているのだろう。
 例えば、須之内徹(生前は描きたいとの申し出をやんわり断ったそうで、作品は没後に描いた)やギリヤーク尼崎(舞踏家、私はライブを見ていない)の作品も展示されているが、私は盗んでも手元に置きたい(須之内徹の名画の条件)とは思わない。実際を知らないが、社会の隅に置かれた人でなく、木下の射通すような視線が感じられない。

 元ハンセン病患者の詩人Sについては、H子と同じ思いを抱いている。宮本常一「忘れられた日本人」の中の「土佐寺川情話」に、山道で宮本がハンセン病患者と出会う場面が描かれている。最初ははっとして、少しして落ち着き、後で胸の痛む思いをしている。もし私がハンセン病患者の方と会う機会があったら、どういう態度で接することができるか、Sや木下に試されているような気もする。何とも心許ない。

   (2012年5月14日記録)

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2012年5月10日 (木)

随想:東京新聞記事「再稼動を問う」について(続)

 東京新聞・2012年5月8日朝刊22面に、同紙6日朝刊の「再稼動を問う」の続報「発足遅れる規制庁 オウンゴールで迷走?」が掲載された。

 

 ここでオウンゴールに例えられるのは、民主・近藤洋介衆議院議員の同紙インタビューに対する回答のことで、私の思いは8日にブログ記事を掲載した。とりあえず、関連部分を次に再掲しておく。

 『-原子力規制庁の発足まで待つべきではないのか。
  「規制庁に変わっても、専門家やルールは大きく変わらない。本の中身は同じで、表紙だけ変えれば安心だというのは、意味合いがよく分からない。ためにする議論という気がする」』

 付け加えた私の思いは次の通り。

 『近藤議員が、あるいは推進派の方が、表紙だけ変えようとしていると感じてしまう。私は、表紙だけ変えて安心などとは思わないし、多くの方も思わないだろう。このような考え方の下、組織見直しを進めようとしているのだろうか。問題含みの発言と感じる。』

 

 多くの方が問題含みの発言と感じたのだろう。近藤議員は8日の再取材で『規制庁ができても安全技術の知見は変わることはない、と申し上げたかった』と釈明したそうだ。

 そうとしても、『知見は変わることはない』とはこれまた問題発言である。知見が変わろうと変わるまいと、経産政務官の近藤議員が、現体制にしろ規制庁ができたにしろ、圧力をかけるような発言をして良いだろうか、良い訳がない。

 オウンゴールは、選手が最善の結果を求めてプレイした中のちょっとした行き違いで起こること、仮に恣意的なプレイで相手に1点献上するなら、それは八百長だ。
 近藤議員の発言は果たしてオウンゴールだろうか。

   (2012年5月10日記録)

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2012年5月 8日 (火)

随想:東京新聞記事「再稼動を問う」について(長文)

 東京新聞・2012年5月6日朝刊2面に「再稼動を問う」として、原子力発電再稼動推進の立場から民主・近藤洋介衆議院議員、慎重の立場から自民・河野太郎衆議院議員のインタビュー記事が掲載された。

 河野議員は「僕は脱原発派だが、かといってずっと再稼働させなくていいわけではない。新組織が安全基準を見直し、それに照らして最低限を再稼働させるのが正当な手順だ」が基本となる発言。

 私は脱原発再稼動反対を基本とする。しかし、意見を異にする方もいるわけで、議論の落ち着く先として河野議員の考え方は次善と考える。ただ、判断のためのバイアスのないデータ・情報が少なく思えて、そこが悩ましい。

 私の基本的な考え方は以上だが、その観点から近藤議員の発言に違和感を感じたので吟味した。ちなみに近藤議員は経産政務官の立場にある、

 

 参考のため、近藤議員のインタビュー記事引用を開始する。カッコつき数字は整理のため追記した。

(1) -東日本大震災で原発の安全神話は崩壊した。
  「原発によって原油価格に影響されず、経済を発展させることができた。原発は大変大きな役割を果たした。しかし、絶対に安全だという技術への過信があった。安全神話に陥っていたことは反省するべきだ」

(2) -それでも再稼働は必要が。
  「想定される危機に対応するのが政治家の役割だ。大規模停電が起きたら信号や病院、鉄道、空港はどうなるのが。1%でも停電の可能性があるのなら政府と大阪府や大阪市、関電が一緒になって対策を議論するべきだ。これは命の問題だ」
 「極論すれば、大規模停電が起きた時にどうなるがの研究の結果、一人の命も失わない確証が得られれるなら再稼働しなくてもいい。しかし、もしかしたら死ぬかもしれないというのなら、安全性の確認と地元の理解を経て再稼働するべきだ」

(3) -安全性の確認が十分でなく、拙速だと地元は批判している。
  「技術的に安全性は十分だと思っている。ストレステストも含めてずっと詰めてきた。プロセスにおいて、拙速だとは思わない」

(4) -野田佳彦首相の対応は経済優先で「再稼働ありき」に見える。
  「安全が確認されたら、国民生活を守るために再稼働する。首相は現実的に考えているだけだ。『ありき』とは違う」

(5) -原子力規制庁の発足まで待つべきではないのか。
  「規制庁に変わっても、専門家やルールは大きく変わらない。本の中身は同じで、表紙だけ変えれば安心だというのは、意味合いがよく分からない。ためにする議論という気がする」

(6) -民主党内にも再稼働慎重論がある。
  「(再稼働決定は)政府の仕事。党の全面的な合意がなければ動かさないというのは、議会制民主主義の仕組みとして筋違いだ」

(7) -橋下徹大阪市長が再稼働の条件を提言した。
  「再稼働問題を政局的に使う政治家がいるのは残念だ。政局から現実の議論に引き戻すことが必要だ」

 引用を終了する。

 私なりの吟味を、項目ごとに示す。

(1) 原発が大きな役割を果たしたのは事実かも知れない。しかし、絶対安全が前提条件であった筈。東電原発事故は、その前提条件の破綻である。重要なことを欠落させての回答になっていないか。それにしても、誰が誰に向けて、何時までに反省すべきか。主語や期限を明確にしない回答に、曖昧に済ませようとの意志を感じる。記者もそこを突っ込んで欲しい。

(2) 政治家の役割、大規模停電の弊害も異論は無い。ただし、命の問題は、まず原発再稼動の場合の可能性を吟味することが先だろう。議論のすり替えと感じてしまう。

(3) 思う思わないは脇におく。ストレステストの一部の報告書が提出されたのは事実だろう。ただし、二次のストレステストは報告されていない。一次ストレステストに対する原子力安全委員会の報告も、安全に関して留保しているだろう。これらに照らして、回答に作為を感じる。
 またストレステストは、参考のために事故を起こした東電福島原発についても実施すべきである。ストレステストの妥当性検証のためにも、それが科学的な取組みと考える。東電多忙との理由で回避されていると認識するが、果たしてそうか。どういう結果がでても扱いに困りそうだからではないか。

(4) 真の安全が担保されるなら、私の基本的な考えも変化する可能性はある。

(5) 近藤議員が、あるいは推進派の方が、表紙だけ変えようとしていると感じてしまう。私は、表紙だけ変えて安心などとは思わないし、多くの方も思わないだろう。このような考え方の下、組織見直しを進めようとしているのだろうか。問題含みの発言と感じる。

(6) 大筋のコンセンサスを得ている課題において三権分立は正しいと思う。しかし、未曾有の東電原発事故後の原発再稼動を、仕組み論に矮小化することは正しいか、筋が通っているか。私はそう思わない。前首相とは方向性を異にすると思うし、首相により判断が異なる課題に対しては強弁にしか聞こえない。

(7) 概ね(6)に同じ。

 

 いずれ意思表示する機会もあるだろう。自分なりの意見を固めておきたい。それにしても、歴史的経緯からすれば、民主・近藤洋介衆議院議員と自民・河野太郎衆議院議員の思いは反対のようにも感じてしまう。

   (2012年5月7日記録)

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2012年5月 6日 (日)

随想:横浜DeNAベイスターズ対中日ドラゴンズ(2012年5月5日)

 プロ野球結果を新聞で確認し、各球団の順位程度は承知していますが、プロ野球ファンでもなし、贔屓球団があるわけでもありません。それでも、横浜球場に年に1・2回ほど足を向けます。

 連休に遠出をする習慣もなく、用があるわけでもなく、天気良しということで、2012年5月5日、急遽、本年第1回目のプロ野球観戦に向かいました。外野席・内野自由席は既に売り切れでしたので、三塁側内野指定席B(かなり上段)を購入、3500円は高いか安いか。小劇場系の演劇、オーケストラならB席ぐらいの見当です。

 ゲームは1回裏にベイスターズが4点先制、その後、打つわ打つわ、今日だけ見ればベイスターズが最下位なんて信じられない。結果12対1でベイスターズ勝利。ただ三塁側では意気上がりません。

 大味な試合でしたが、ホームラン3本が出て、地元ベイスターズ勝利で、結果にこだわるわけではありませんが、まあまあよかった。それにしても随分良い天気、夏日だったようですが、3時間半座り続けて多少、日に焼けました。(写真左、中央が日本大通り方面。右、スコアボード)
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 野球を見ながら周囲の景色も見ていました。直ぐ脇が横浜市役所、村野藤吾設計になる建物も50年を経て老朽化は疑いようなし。ランドマークタワーが抜きん出て、視線を少し右手に移すと何か判らない大きなビルが、今度調べようかと。正面が日本大通の官庁街。古い街並の定かな記憶がないのですが、随分と変わっているでしょう。

 この球場も、横浜球場に建て変わる前は平和球場で、高校生の時に高校野球の応援に駆り出されました。球場の市役所側に小さな体育館・フライヤジムがあったので、小さな球場だったのでしょう。と思い写真を探しましたら、こちらのブログに写真を見つけました。フライヤジムの左手に球場の一部も見えます。上の川は、今は首都高速に化けています。

 

 野球から横道に逸れましたが最後に一言。最初から最後まで応援が続きます。グランドにはチアリーダーが時々出て来て応援もします。多くの人がそれを肯定して成り立っているのでしょうけど、水を打ったような静けさ、が支配する野球観戦はないのでしょうね。選手のうめき声とか、ぶつかる音とか、客のどよめきだってある筈だけど。そういう状況なら、もう少し野球場に出かけても良いかな。

  (2012年5月6日記録)

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2012年5月 5日 (土)

音楽:みなとみらいクラシック・クルーズ Vol.38

 出演 Duo Prima(礒絵里子(Vn)&神谷未穂(Vn))+石岡久乃

 曲目 ランチタイム・クルーズ(12:10~13:00)
     ルクレール :2つのヴァイオリンのためのソナタ集より 作品3-2
     モーツァルト/E.コヴァチェク編:オペラ「魔笛」より
             ”おいらは鳥刺し””夜の女王のアリア”
     バルトーク :44のデュオより No.26、32、35、36
     ショスタコーヴィッチ/アトヴミアン編:5つのヴァイオリン二重奏曲
     サラサーテ :ナヴァラ 作品33
     ベッリーニ :歌劇「ノルマ」より カスタ・ティーヴァ(アンコール)
    ティータイム/クルーズ(14:30~15:30)
     モーツァルト/E.コヴァチェク編:オペラ「魔笛」より
             ”恋とはどんなものかしら””もう飛ぶまいぞ、この蝶々”
     イギリス民謡/玉木宏樹編:グリーンスリーブス
     バルトーク/啼鵬編:ルーマニア民族舞曲
     モンティ/山本祐ノ介編:チャールダーシュ
     サラサーテ/玉木宏樹編:ツィゴイネルワイゼン
     賛美歌   :主よ御許に近づかん(アンコール)

 会場   横浜みなとみらいホール・大ホール
 公演   2012年5月1日

 

 ヴァイオリンの二人はいとこ同士だそうです。神谷未穂は仙台フィルのコンサートマスター。礒絵里子は7月17日の神奈川フィル・ブルーダル基金コンサートにソリスト(チャイコフスキー:V協・第1楽章)に出演するとの話がありました。

 各クルーズの、はじめの3曲・2曲は2ヴァイオリン、以降はピアノ伴奏が加わります。編成が珍しいので、編曲物が多くなるのは仕方ないところでしょう。大抵は気になりませんが、モーツアルトは、元のオペラがあまりにも有名で、その中でも有名な曲ですから、ヴァイオリンへの編曲はちょっと色あせてしまうように感じました。演奏の当否ではありませんので念のため。

 第1・第2を交代で担当しますが、旋律を交互に交代しながら弾く曲と、旋律・伴奏に分かれるような曲がありました。チャールダーシュやツィゴイネルワイゼンは前者ですが、一人で弾くのと大きな差異は感じませんでした。伴奏の方に面白みがあるのでしょうが、はっきりと認識できませんでした。

 今回は編曲の面白さ、難しさが少し判ったように思います。どちらが強いかといえば、難しさです。上手くいって当たり前のような所があるので、編曲者も大変だと思います。元曲を知らなければ、そんなものかと思ってしまうような所がありますけど。

 ヴァイオリンは繊細な楽器と思います。でも二人の演奏は、逞しい音に至るまで表現力が大きく、また大ホールを十分な音量で響かせました。バルトークやショスタコーヴィッチも魅力的に響きました。使用楽器と奏者の技量に寄るものでしょう。

 シンフォニー中のソロ、協奏曲のソロ、室内楽のソロもしくはパート、直前の旋律・合奏の様子でも、聴く側の感じが随分変わると思います。オーケストラをか細く思ったり、ヴァイオリンを雄大に思ったり、良い聴き手になるのも難しいものです。

 このシリーズは、手頃な値段で気軽に、室内楽を中心に幅広い種類の音楽を聴けるので、楽しみですし、勉強になります。今回も例外でありません。

 次回は6月11日(月)、工藤重典(FL)をメインにライト・クラシックとジャズ・トリオです。

   (2012年05月05日記録)

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2012年5月 2日 (水)

美術:平塚市美術館「棟方志功展」「木下晋展」

  名称   市制80周年記念 棟方志功展
       木下晋展 祈りの心
  会場   平塚市美術館
  会期   棟方志功展 2012年4月14日(土)~6月 3日(日)
       木下晋展  2012年4月21日(土)~6月10日(日)
  鑑賞日  2012年4月30日(月)

  参考   公式ホームページ

 

 「棟方志功展」は、青森県立美術館・棟方志功記念館・棟方版画館の所蔵品で構成。若き日の油彩作品が数点、紙に描かれた絵が数点、後は版画で、計55点が展示されています。

 一番多く観た作家で最近は感慨が薄い。いつ観ても良いと思うのは「二菩薩釈迦十大弟子」、六曲一双の屏風仕立て。窮屈な形で版木に治まる十大弟子が愛らしく、白と黒のバランスも美しい。三十代半ばの貧乏だった頃の作品。

 気になったのが「丸紋百花譜」という四曲一双の屏風仕立ての絵、絵にあまり興味を感じなかったのですが、隅に「依躅飛々沫技法」と書かれていたことです。富山県福光にある真宗寺院光徳寺の山号が躅飛山、この寺には棟方志功の襖絵などもあって、ここから取られたと気付きますが、制作時期と疎開の時期が合わない。単に疎開前にも行ったということだけのようでした。

 人気があるでしょうし、これからも観る機会は多いと思います。

 

 「木下晋展」は、観終えて打ちのめされた思いがしました。

 木下晋は今回で三回目。最初は直島スタンダード展、民家の奥に飾られていて、遠めに写真と思った記憶が残ります。10H~10Bの鉛筆で紙に描かれた作品、鉛筆と紙ならば大抵はエスキースと思いますが、ちょっと見には写真と思える繊細さで仕上がっています。

 その手法が何と出会うかですが、木下晋は市井に生きる人、社会の隅で生きざるを得なかった人に向かいます。最後の瞽女と言われた小林ハル、谷崎潤一郎「痴人の愛」のモデル和嶋せい、元ハンセン病患者の詩人桜井哲夫、木下の母など。

 副題の「祈りの心」は、全作品に通じる深奥な意味合いが篭もっているのですが、永年温めてきた「合掌図」に新作が加わって、これもじっくり観るに値します。合掌図は両の手を合わせた手首から先を作品にしています。合わせた手のちょっとした左右のずれ、かけた爪、老若の差。新しい作品は、東日本大震災を目の当たりにしたことが制作のきっかけです。

 他に湯殿山中注蓮寺の天井画「天空之扉下絵」とエスキース。

 鉛筆に紙の作品といえば誰にも大方の想像はつくでしょうが、一度その前に立てば、想像を絶する思いに叩きのめされると思います。木下晋のオリジナリティと、社会の隅に光をあてるその性根に脱帽でした。

 写真は直島スタンダード展(2001年9月4日~12月16日)カタログより、インパクトありました。
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   (2012年5月2日記録)

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