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2011年8月13日 (土)

随想:2011年原爆忌を通過して(1) (長文)

 8月6日から9日までの朝日新聞・東京新聞の社説・論説をいつもより丁寧に読みました。残念ながら、他紙にまで目を向ける余裕はありませんでしたが。今年の原爆忌は、東電原発事故をどのように扱うか、各々の見識が問われる筈ですから。

 

 2011年8月6日東京新聞朝刊一面に掲載された名古屋本社論説主幹・深田実の「原発に頼らない国へ(*1)」は、文章も易しく、多く人の心に響くであろう、秀逸の論説だと思いました。 

 『原発には賛否さまざまな議論があります。脱原発への一番の反論は、電力が足りなくなったらどうするのか、ということです。しかし、それには人の命と安全は経済性に優先すると答えたい。人間を大切にするというのが私たちの従来の主張だからです。核の制御の難しさはもちろん、日本が四枚のプレート上にある世界有数の地震国であることも大きな理由です。』

 九電玄海原発再稼動の動きに際して、経産相の安全であるとの発言の、どこに安全が担保されているかを確認できず、いらいら感が募りました。東電原発事故を引き起こした既存システムが、原因解明無しに、システム改善無しに安全を宣言しても、少なくとも私は信用しません。それらが解明され、改善されたとしても、それで安全が保障されるわけでもありませんけど。

 『原発のない国へ、という挑戦はもちろん容易ではありません。日本は現在エネルギーの大半を海外に頼っています。経済活動に支障は出るでしょうし、弱い立場の人を苦しめることも許されません。実現には年月も努力も必要です。しかし、指針を掲げねば前へとは進めません。』

 今までの延長線上で物事を考えません。指針に掲げる「原発に頼らない国へ」を実現するために為すべきことを、私なりに考えていきます。

 

 2011年8月6日東京新聞朝刊社説「もっともっと太い声で 原爆忌に考える(*2)」は、井上ひさし・少年口伝隊を基にした原爆をテーマとする朗読劇「少年口伝隊1945」を取り上げて原発のない次世代にと訴えます。ここで岡本さんとは、朗読劇の演出家です。

 『岡本さんがこの夏の舞台で最も力を入れたのは、口伝隊が「進駐してきた米兵をやんわりやさしく慰めろ」という、当局からの要請を伝える場面です。

 ついこの間まで、徹底抗戦を主張していた大人たち。為政者の変わり身の早さに少年たちは「こがあ、さかへこ(さかさま)な話があってええんじゃろうか」と憤慨します。

 “さかへこ”なのは、日本だけではありません。原爆を落とした当の米国は、終戦から八年後、米ソの緊張が高まる中で、書くの平和利用を提唱し、原爆で破壊した日本に、原子炉と核燃料を与えて自陣に引き入れます。

 日本政府は米国の”厚意”にいたく感激し、核の恐怖と原詩の夢を切り分けて、原子力発電所の建設に邁進します。当時、日米合同で広島に原発を造る提案(米下院の決議案など)さえありました。米国の世界戦略にのっとって、恐怖を夢で塗りつぶそうとしたわけです。まさに“さかへこ”です。』

 “さかへこ”は広島の方言でしょうか。聞き慣れない言葉に“さかさま”より強いニュアンスを感じます。3月11日以来、いや時期を区切る必要もないのですが、肝心なところで政治は、多くの国民とは“さかへこ”な対応をしているとように感じるのは私だけではないことが判りました。

 

 2011年8月6日朝日新聞朝刊社説「原爆投下と原発事故 核との共存から決別へ(*3)」は、核兵器廃絶と脱原発を一緒に論じることで、両者を相殺してしまう主張になっているように感じます。

 『核エネルギーは20世紀の科学の発達を象徴する存在である。
 私たちは、一度に大量の人間を殺害し、長期にわたって被爆者を苦しめてきた核兵器の廃絶を繰り返し訴えてきた。
 世界各国に広がった原発も、同じ燃料と技術を使い、危険を内包する。ひとたび制御を失えば、人間社会と環境を脅かし続ける。その安全性のもろさが明白になった以上、原発から脱却する道も同時に考えていかなければならない。
 世界には推定で約23000発の核弾頭がある。原発の原子炉の数は約440基だ。
 道のりは長く、平坦ではないだろう。被害者の歴史と現在に向き合う日本が、核兵器廃絶を訴えるだけではなく、原発の安全性を徹底検証し、将来的にはゼロにしていく道を模索する。それは広島、長崎の犠牲者や福島の被害者、そして次の世代に対する私達の責任である。
 核との共存ではなく、決別への一歩を先頭を切って踏み出すことが、ヒバクの体験を重ねた日本の針路だと考える。』 

 大筋において異論を挟む余地のないように思えますが、『原発の安全性を徹底検証し、将来的にはゼロにしていく道を模索する。』が、主張として弱いと思えます。今までは原発の安全性を徹底検証してこなかったのでしょうか。絶対安全は、東電原発事故で完全に棄却された筈です。現状を踏まえた主張になっているとも思えません。『原発をゼロにしていく道を模索する』も毅然としたところがありません。

 

 私は東京新聞の主張に共感を覚えました。指針を掲げねば前へとは進めません。為政者の変わり身の早さも監視しなければなりません。これらを考えの基盤に据えて、物事を良く見聞きし、そして判るように努めます。

   (2011年8月13日記録)

 

 

 

(*1) 2011年8月6日東京新聞朝刊一面 名古屋本社論説主幹・深田実「原発に頼らない国へ」 

 広島・長崎の原爆忌が巡ってきます。毎年訪れる日ですが、今年は特別です。三月に福島原発事故が起きたからです。私たちは、日本は原発のない国に向かうべきだと考えます。

 原発には賛否さまざまな議論があります。脱原発への一番の反論は、電力が足りなくなったらどうするのか、ということです。しかし、それには人の命と安全は経済性に優先すると答えたい。人間を大切にするというのが私たちの従来の主張だからです。核の制御の難しさはもちろん、日本が四枚のプレート上にある世界有数の地震国であることも大きな理由です。

 原発の安全、安価、クリーンの神話は崩れ去りました。私たちは電力の自由化、自然エネルギー庁の新設、徹底した情報公開を提言します。詳しくは、論説特集(14・19面)をお読み下さい。

 原発のない国へ、という挑戦はもちろん容易ではありません。日本は現在エネルギーの大半を海外に頼っています。経済活動に支障は出るでしょうし、弱い立場の人を苦しめることも許されません。実現には年月も努力も必要です。しかし、指針を掲げねば前へとは進めません。

 放射能被害は、被爆国の国民として、また福島の惨状を知った同胞として、深刻かつ重大に受け止めねばなりません。よく考え、議論し、行動しようではありませんか。一人の理想は小さくとも、合わせれば世界の理念にもなるでしょう。

 戦後日本の経済成長は世界を驚かせました。大いに誇るべきです。だが原子力については平和利用の名の下、その恐るべき危険性を見過ごし、原発の立地は多くを地方に押しつけてきました。率直に反省すべきことです。

 歴史を学ぶのは未来を考えようと思うからです。原子力の過去を知るほど、今が私たちの変わらねばならない時だと考えます。それは欧米では再生エネルギーの活用という形で始まっているのです。

 世界では、原発は中国やインド、中東などで増えそうです。各国の事情はあります。しかし核はますます拡散し、巨大事故や核テロの危険性も増えると懸念します。日本は持ち前の技術と結束力で、原発が亡くても豊かな社会が築けるというモデルを世界に示すべきです。それは、日本の歴史的役割でもあるのです。

 

(*2) 2011年8月6日東京新聞朝刊社説「もっともっと太い声で 原爆忌に考える」 

 いつにも増して特別な日になりました。ヒロシマの歴史はフクシマの今にも続いています。たとえ核兵器が廃絶されても、この国に原発がある限り。

 爆心地から東へ四百六十メートルの広島市袋町小学校では、焼け残った西校舎の一部が、平和資料館として一般に公開されています。

 当時の面影を伝える玄関脇で、横長のパノラマ写真が来訪者を出迎えます。撮影は十月五日。「爆心地から南方面を望む」という説明がついています。
 まさか福島で原発が

 原爆ドームを中心に、コンクリートの建物の四角い基礎の部分だけを残して、見渡す限り平たんな廃虚になってしまった広島の街。ところどころにがれきの山がうずたかく積まれ、橋の下には、壊れた家の材木がたまっています。はるか瀬戸内海に浮かぶ似島の三角形が、はっきりと見渡せます。

 原爆がテーマの朗読劇「少年口伝隊(くでんたい)一九四五」の制作者、富永芳美さん(61)の頭の中で、原爆の焦土と津波にさらわれた東北の港町が重なりました。震災翌日、袋町小学校に足を向け、写真の前で黙とうをささげると、少し気持ちが落ち着きました。でもまさか、福島で原発が爆発しようとは。

 少年口伝隊は、井上ひさしさんの作品です。昨年のこの日、本欄で「太い声で語りんさい」の見出しとともに、取り上げました。原爆で社屋を失った中国新聞社に組織された少年たちが、焼け跡を駆け回って口伝えでニュースを読んだ史実が基になっています。

 「大事なことはただ一つじゃ。かならず太い声で読まんさいよ」。この短いセリフの中に、反戦、反核の“太い声”を上げ続けた井上さんの思いが凝縮されています。さもないと、人は声の大きな方へ、便利な方へと、ついついなびいてしまうから。
 ヒロシマから共感を

 昨年の七月が広島初演。ことしも七月中に市内で計五回、うち一回は原爆を生き延びた被爆電車の中での公演でした。

 原爆投下から間もない九月、広島は枕崎台風の高潮に襲われました。脚本には「やがて広島は、汚れた水をたたえた湖になった。二千十二名の命が湖の底に沈んだ」と書かれています。

 そして、口伝隊の少年たちをむしばむ放射能。目の前で進行する福島の現実を考えたとき、演出の岡本ふみのさん(32)は「今ここで、これを演じてもいいのだろうか」と自問しました。

 岡本さんはそこでもう一度、東北や福島の現状を見直します。核の恐怖は過去のものではありません。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマと三たび続いた核の過ちを、もうこれ以上繰り返してはなりません。だから、ヒロシマがフクシマに寄せるヒロシマならではの共感を、一人でも多くの人に伝えたい、伝えなければならないと、考えを改めました。

 岡本さんがこの夏の舞台で最も力を入れたのは、口伝隊が「進駐してきた米兵をやんわりやさしく慰めろ」という、当局からの要請を伝える場面です。

 ついこの間まで、徹底抗戦を主張していた大人たち。為政者の変わり身の早さに少年たちは「こがあ、さかへこ(さかさま)な話があっとってええんじゃろか」と憤慨します。

 “さかへこ”なのは、日本だけではありません。原爆を落とした当の米国は、終戦から八年後、米ソの緊張が高まる中で、核の平和利用を提唱し、原爆で破壊した日本に、原子炉と核燃料を与えて自陣に引き入れます。

 日本政府は米国の“厚意”にいたく感激し、核の恐怖と原子の夢を切り分けて、原子力発電所の建設に邁進(まいしん)します。当時、日米合同で広島に原発を造る提案(米下院の決議案など)さえありました。米国の世界戦略にのっとって、恐怖を夢で塗りつぶそうとしたわけです。まさに“さかへこ”です。

 長崎では、原爆の犠牲者で、平和のシンボルのような永井隆博士さえ「原子力が汽船も汽車も飛行機も走らすことができる。(中略)人間はどれほど幸福になるかしれないね」(「長崎の鐘」)と書いています。

 しかし、博士はそのすぐあとに「人類は今や自ら獲得した原子力を所有することによって、自らの運命の存滅の鍵を所持することになったのだ」と添えました。
 原発のない次世代へ

 フクシマは教えてくれました。地震国日本では、原子の夢にまどろむことはできないと。核の恐怖と原子の夢、ヒロシマとフクシマの空は続いているのだと。

 私たちも去年以上に、もっとずっと腹の底から“太い声”を絞り出し、核兵器のない国同様、原発のない国を次の世代に残そうと、語らなければなりません。

 

(*3) 2011年8月6日朝日新聞朝刊社説「原爆投下と原発事故―核との共存から決別へ」 

 人類は核と共存できるか。

 広島に原爆が投下されて66年の夏、私たちは改めてこの重く難しい問いに向き合っている。

 被爆体験をもとに核兵器廃絶を世界に訴えながら、核の平和利用を推し進める――。

 核を善悪に使い分けて、日本は半世紀の間、原子力発電所の建設に邁進(まいしん)してきた。そして福島第一原発で制御不能の事態に陥り、とてつもない被曝(ひばく)事故を起こしてしまった。

■平和利用への期待

 こんな指摘がある。

 日本は、広島・長崎で核の恐ろしさを身をもって知った。なのにその経験を風化させ、いつしか核の怖さを過小評価したために再び惨禍を招いたのではないか。

 歴史をさかのぼってみる。

 かつては被爆者自身も核の平和利用に期待を寄せていた。

 1951年、被爆児童の作文集「原爆の子――広島の少年少女のうったえ」が刊行された。平和教育の原典といわれる本の序文で、編纂(へんさん)した教育学者、故長田新(おさだ・あらた)さんは書いている。

 「広島こそ平和的条件における原子力時代の誕生地でなくてはならない」

 長田さんの四男で、父とともに被爆した五郎さん(84)は当時の父の心境をこう解説する。

 原爆の非人道性、辛苦を克服しようと父は必死に考えていた。原爆に使われた技術が、平和な使途に転用できるなら人間の勝利であると――。

 平和利用への期待は、被爆体験を省みなかったためではなく、苦しみを前向きに乗り越えようとする意思でもあった。

 53年12月、アイゼンハワー米大統領の演説「原子力の平和利用」を機に、日本は原発導入に向け動き出す。54年3月、日本初の原子力予算が提案された。

 その2週間後、第五福竜丸が水爆実験の「死の灰」を浴びたことが明らかになる。原水爆禁止運動が全国に広がったが、被爆地の期待も担った原発が後戻りすることはなかった。

■影響の長期化は共通

 それから57年――。

 広島、長崎、第五福竜丸、そして福島。ヒバク体験を重ねた日本は、核とのつきあい方を考え直す時に来ている。それは軍事、民生用にかかわらない。

 放射線は長い年月をかけて人体にどんな影響を及ぼすのか。原爆についていま、二つの場で議論が進む。

 一つは原爆症認定訴訟。国は2009年8月、集団訴訟の原告と全面解決をめざす確認書をかわし、救済の方針を示した。

 しかし昨年度、認定申請を却下された数は前年の倍以上の5千件に及んだ。多くは原爆投下後、爆心地近くに入り被爆しても、放射線と病気との因果関係が明確でないと判断された。

 被爆者手帳をもつ約22万人のうち、医療特別手当が受給できる原爆症に認定された人は7210人と3%強。前年の2.8%から微増にとどまる。

 もう一つの場は、原爆投下後に降った黒い雨の指定地域を広げるかどうかなどを考える厚生労働省の有識者検討会だ。

 広島市などの調査で、放射性物質を含んだ黒い雨の降雨地域が現在の指定地域の数倍だった可能性が浮上した。指定地域にいた人は被爆者援護法に基づく健康診断などを受けられる。

 健康不安に悩む多くの住民の声を受け、国は指定地域を科学的に見直す作業を続けている。

 一方、原発事故が起きた福島では長期にわたる低線量放射線の影響が心配されている。

 福島県は全県民を対象に健康調査に着手した。30年以上にわたって経過を観察するという。

 まず3月11日から2週間の行動記録を調べ、場所や屋外にいた時間などから被曝線量を推計する。

 被爆と被曝。見えない放射線の影響を軽減するため、息の長い作業が続く点が共通する。

■次世代への責任

 核エネルギーは20世紀の科学の発達を象徴する存在である。

 私たちは、一度に大量の人間を殺害し、長期にわたって被爆者を苦しめてきた核兵器の廃絶を繰り返し訴えてきた。

 世界各国に広がった原発も、同じ燃料と技術を使い、危険を内包する。ひとたび制御を失えば、人間社会と環境を脅かし続ける。その安全性のもろさが明白になった以上、原発から脱却する道も同時に考えていかなければならない。

 世界には推定で約2万3千発の核弾頭がある。原発の原子炉の数は約440基だ。

 道のりは長く、平坦(へいたん)ではないだろう。核被害の歴史と現在に向き合う日本が、核兵器廃絶を訴えるだけではなく、原発の安全性を徹底検証し、将来的にゼロにしていく道を模索する。それは広島、長崎の犠牲者や福島の被災者、そして次の世代に対する私たちの責任である。

 核との共存ではなく、決別への一歩を先頭を切って踏み出すことが、ヒバクの体験を重ねた日本の針路だと考える。

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