能楽:能・狂言に潜む中世人の精神 第1回・歌
番組 講演(30分) 馬場あき子
狂言「連歌盗人」
シテ(盗人・甲) 山本東次郎
アド(盗人・乙) 山本則重
アド(主) 山本則俊
能「雨月」
シテ(尉・宮人) 大槻文蔵
ツレ(姥) 上田拓司
ワキ(西行法師) 福王和幸
間(末社の神) 山本東次郎
会場 横浜能楽堂
公演 2011年01月08日(土)
鑑賞 2011年01月08日(土) 14:00~17:00(休憩15分)
「講演」。中世は、源氏物語、徒然草、能・狂言などを通して我々の精神に残る。和歌は力を入れずして天地を動かす。院政末期から中世に至る清貧の思想は切実に求める美しさ。中世の美の全てではないが、何も要らない風流は乱世に生まれた美意識。その中に歌、歌の席は貧富の差が無くなる。歌人の思いが滲み出たように思った。
「連歌盗人」。連歌会の当番になったが貧しくて準備の進まない二人、必要なものを知り合いの金持ちから盗もうと忍び込む。そこに発句をしたためた懐紙。二人は盗みを忘れて句を付けるが、金持ちに見つかり成敗されかかる。
伝統文芸と盗人の取り合わせ、根っからの盗人に成りきれない貧者、いかにも狂言。昨年11月の「呼声」で演者三人の味わい深い雰囲気に触れた。今回の内容はよほど地味だが、華麗さとわび・さびを併せ持つ連歌の世界に思い添わせ、滑稽の向こうに中世の美意識を浮かび上がらせた。
「雨月」。摂津国住吉明神に参詣の西行、一夜の宿を老夫婦に請う。二人は壊れた屋根を直すか直さないかで争う最中。ふと漏らした「賎が軒端に葺きぞわづらふ」に興を感じた翁は、上の句を付けたら宿を貸そうと。「月は洩れ雨はたまれととにかくに」の付けに感心した翁は西行を招き入れてもてなす。
眠りにつくと末社の神が現れ、老夫婦は住吉明神の化身と告げる。やがて住吉明神が現われ、和歌の功徳、参詣を嘉納すると告げ、一舞して喜びを示す。
伝統芸能を通じて神との交流を描く。極限まで抑制された身体表現は、通常から遠ざかる世界の表現に必須なのだろう。雨月に限らないが、そのような感じを受けるようになった。とすれば、演者は通常からいかに遠ざかるかが技量なのだろう。私の仮説。
雨月は90分の長い演目、それにも関わらず興味を切らさない演者は、実に遠い世界に連れて行ってくれた。確かに中世は我々の精神に宿っている。
(2011年1月12日記録)
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