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2010年3月 2日 (火)

演劇:チェルフィッチュ「わたしたちは無傷な別人であるのか?」

   作・演出  岡田利規

   出演    山縣太一、松村翔子、安藤真理、青柳いづみ、
         武田力、佐々木幸子、矢沢誠

   会場    横浜美術館レクチャーホール
   公演    2009年12月5日(土)~12月12日(土)
   鑑賞    2010年03月01日 19:30~21:15
   公式HP   http://chelfitsch.net/

 マンションに住む夫婦、新しくできる高層マンションに引っ越す予定になっている。話は2009年8月29日から30日にかけてのこと、そしてその少し前のこと。妻は夫に、土曜日か日曜日(29日か30日)に後輩を自宅に招きたいと言う。結局、土曜日に後輩を招待した。夜、ソファーでセックスする。日曜日、食べるパンが不足したので買い出かけ、ついでに投票に行く。凝縮すればこれだけの話である。

 詳細を追求すれば話は実に細かくなる。例えば、後輩は訪問前に手土産を見繕う。ワインを一本にするか二本にするか、二本分の値段ほどする高級なワインを一本にするとか。チーズはくせの無い、カビの生えていないものとカビの少ないものを選ぶとか。延々と続く気がする。

 細かい話はいくつも出てくる。「男の人がいます。その男の人は幸せです」を基本型にする幸せの定義。新しくできるマンションへの期待。手土産を見繕う過程。無差別殺傷事件の回想。
 マンションを訪ねてくる不審な男は、幸せの周りを不幸せが取り巻いているとつぶやく。快適な環境でセックスできる者は幸せとも。

 

 取り上げられた断片は当たり前のように繰り返される日常である。しかし第45回衆議院選挙が実施される特異な日には特異な日常になりそうだが、パンを買いにいくついでに投票に寄る程度の変化しか及ぼさない。

 舞台には何の飾りも無い。いやホリゾントのやや下手側に時計が掛けられている。意図的なものか、もともとあったものか判断はつかない。他用で何回か入ったが時計があったとは思わない。何も無いのに等しいから何かあると気になる。

 役者はカジュアルな服装、私服にも見える。役者が決まっている役もあれば、複数の役者が相互に役を分担するような場合もある。

 役者の身体と発する言葉は同期しない。身体は言葉から自由であるけれど、意味を感じられない動きは気持ち悪さを感じさせる。言葉と言葉は随分と間が空いているけれど、これまた気持ちをいらいらさせる。他の人はどう感じているのだろうか。

 幸せとは何か、大きなもの、見えざるものから切り離された極小な空間に宿るということか。幸せと不幸せの間の行き来はどのような力に拠るものか。観た者に考えることを要求する。

 チェルフィッチュは2回目。最初は「フリータイム」、途中で会場を出ようと思った。他に迷惑をかけそうだからこらえたが。今回、多少は緩和したが楽しめる心持には至らない。楽しむことを期待しない演劇かも知れない。同時に思考しなければいけない演劇かも知れない。それにしても上演時間が長いな。

 20日間強の日程の前半はSTスポット横浜、後半は横浜美術館レクチャーホールが会場、さして大きくない会場ではあるが、長期間にもかかわらずチケット入手はなかなか難しい。当日は外人も多かった。多くの人が興味を抱いていることを疑う余地はないけれど、私にはまだ良さが判らない。でも、次の機会にまた出かけるだろう。

  (2010年3月1日記録)

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コメント

この手の芝居は(なんて安易な言葉を使うと叱られそうですが)
きっと何度も観て、慣れることが私には必要な気がします。
でも、そこまで付き合えないという気持ちもあります。
そういう気分になるかどうか、にかかっていますね。
どうなんでしょうね、そういう芝居って。

投稿: strauss | 2010年3月 4日 (木) 23時43分

 難しい質問ですね。チェルフィッチュの芝居は2回しか観ていませんが、いずれも観客として阻害されたような気分に陥るのです。それが私の個人的な感覚に起因するものか、私の(属する団塊の)世代に共通する感覚に起因するものか、あるいは別の属性に起因するものか、鮮明にはなりません。
 個人的な感覚ならば、観ないことで解消できます。世代に共通する感覚ならば、世代間ギャップを突き詰めたい気もします。

 他の人の意見も丹念に読んでみましたが、大半が好意的な感想です。私に近い意見は「楽観的に絶望する」さんで、冒頭を引用すれば次のとおりです。

 「チェルフィッチュの芝居にはどこか自分が観客として立ち会うことが拒否されているような居心地の悪さを私は感じる。そこに踏み込もうとすると「おっさん、およびじゃないよ」と冷たく追い返されてしまうような独特の「おしゃれ感」があって、それがちょっと苦手なのだ。しかしそんな居心地の悪さかかわらずチェルフィッチュの作品は観た後にその作品について語りたい欲求を常に生み出す」

 しかしプロフィールを見たら私より20歳ほど若い。私から見れば、チェルフィッチュのメンバーとそれほど離れてはいないように思います。私は「おしゃれ感」を感じないし、作品について語りたい欲求も強烈ではありません。
 
 私の中で鮮明にならない部分は大きいのですが、横浜を拠点にして活躍する劇団ですし、もう少し付き合おうと思います。

投稿: F3 | 2010年3月 5日 (金) 10時08分

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