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2009年10月 8日 (木)

白想:生・内田樹(2009年10月6日)

 明治学院大学横浜キャンパスにおける2009年度公開セミナー、統一テーマは『「知」の現場から』で全10回。電車のチラシで見かけ、ホームページで確認して第1回目に出かけました。

 第1回目のテーマは「哲学」、講演者は「内田樹(神戸女学院大学教授、哲学者)+高橋源一郎 (国際学部教授)」ですが、話し手が内田、聞き手が高橋。およそ講演60分+質問30分。300人位入れそうな教室は満室、立っている人もちらほら。

 二人はお互いを良く知っていいるようで、ため口で話が進みます。内田は背広着用、武道家でもあり、それを感じさせる精悍さとシャイさを併せ持つような印象を抱きました。高橋は学生みたいないでたち、帰りがけにディパックを背負う姿は大学教授に見えませんでした。格好など気にしていない感じ、逆に気にした結果かも知れませんけど。

 話題は哲学に直接迫るものではありませんでしたが味わい深く、また楽しく進みました。若い人が生きるうえで大切なことをさりげなく話していること、それが真の哲学かも知れません。

 メモは取ったのですが全体をうまく再現できません。それ承知の上で以下を読んで下さい、もし興味があれば。

 

 初めに高橋がWikiPediaの内容に沿って内田を紹介。「高校は、学園紛争の嵐が吹き荒れる中」との表現に対して「一人で吹き荒れようとしていた」、「リアルタイムのビートルズファンであったという主張」に対して「誰が調べたんでしょうか」との突っ込み有り。二人は同時期に京大受験に失敗、成功していたらもっと早く知り合っていただろうと言う。

 21世紀に「佐々木敦・ニッポンの思想」がブレーク、00年代は茂木健一郎・佐藤雄一郎(?)・内田樹。あらゆることを話し、めちゃくちゃ。(養老孟司の忘年会に呼ばれる、茂木・内田・甲野善紀・・・・、その基準は野蛮人。)共通点は書く、しゃべる。00年代、三人がブレークしたのは皆おじさん。佐藤は政治、茂木は脳科学、内田は仏文。内田は何故はやったか。

 「ためらいの倫理学・内田樹著」の後、怒涛のように書く。しかし同じようなものばかり。普通なら色々考えるが、内田は同じようなものばかり。SFCCで(SFファンクラブ)の時は、書いたものをマイ・ガリバンで刷って友達に送り続けた。書くのが好きだ。余り知られなかったが、5人ぐらいは好いてくれる人がいた。

 ブログは今2200万ヒット位で、そのまま本にしている。自分でスクロールして3・4時間読みふけることがある。後で読んで面白いもの。自分向け。突っ込みどころがないように書く。自分が厳しい読み手。自分が納得できるように書く。判りたいから書く。自分に説明できて、腑に落ちるまで書く。難問などはぐるぐる書く。

 (著書の題名を挙げて)何を考えているか。思想が現われているかいないか判らない。00年代に何故読まれているか。隙間産業だから。80年代、学術系で売れて、神戸女学院大学に移ったら、東京の出版社は見向きもしなくなった。忘れ去られた。「ためらいの倫理学」は売れそうもないから出版費用半分を持つと言った。(?)はいいと言った。良い男だ。最初の1年で2000部ぐらいしか売れなかった。読んだ人から次々に伝播した。その後、急に依頼が増えた。自分のどこが社会の認識にかかったのか。

 自分は体系無しに見たり読んだり。広く薄く。広さと薄さは自分の取得。薄い知識を掘り下げて考え出す状況が。引き出そうとするとずるずる出てくる。物書きは特異な人間がなると思われるが、凡庸な考えをまとめるのも良い。00年代に受けた理由ではないか。過激な民主主義。レビナスは凄く難しい。世界で3人位しか判らないようなものと皆が判ることの繋ぎをつけているのではないか。レビナスについての知識、判るとすれば底まで降りていって判るか。日常苦労している人が判らなければ本物ではない。戻すと、内田は教育家、教育の現場にいる。

 大学は何のためにあるのか。学校はミステリーを中心にすべきで、こうやれば判るということでは存在理由がない。理由はわからない。無いと即決して、それから学校に戻った。高校は檻と考えるか、プロテクションと考えるか。17は檻。
 ルールある格闘技。学校の本質はプロテクション。子供は弱い。馬鹿だから、ある程度までは囲っておく。どうして生きるかを養っていく。フィジカルな暴力に屈服して自分を曲げるのはいや。武道にて自信を付けさせて。教育的発想。1年半後に大学を退職したら道場を作りたい。

 大学に入る時、目標がはっきりしている奴は駄目。何だか判らないけど始めたのは続く。何を習おうかが判らない奴は、どこに意味があるのかを探す。そういうマインドがあると成長する。何が自分をここにいさせたか判らないのは大事。

 グローバリゼーションとか専門化の波には20年ぐらいの歴史がある。社会はそう変わっているのに大学は遅い。専門4年間は使い物にならなかった。1・2年教養、3・4年専門に戻した。専門特化は自分に報酬がなければ成り立たない。経済合理性で教育は成り立たない。金で動く部分もあるが、ある程度以上はやめてしまう。努力と報酬の関係を示されても動かない。努力の報酬は意外な所から来る。それは贈与。

 一番漢感心したことは「先生は偉い」ということ。師弟関係がダイナミックで得するのは弟子である。人は学びたいことしか学ばない。師には無尽の知識があると思えば良い。(落語・こんにゃく問答を例に引く)。学びの構造を表している。ここで得したのは旅の僧であって、自分で悟りを開いてしまった。落語はおせっかいと勘違い、学ぶことに付いて語ったものが多い。教育の本質はおせっかい。ここでは勘違いが成立している。

 先生のやることは判らないから良い(夏目漱石の先生像を引く)。(高橋は)教授になってから卒論を指導してくれと言われ、自分は書いたことが無いけれど何とかなる。学生が調べて自分でやる。小中学校の先生は大変で大学の先生は簡単。

 卒業年次が高くなると教師を尊敬する度合いが高まる。大学時代の意味が判ってくる。教師は定点にいる必要がある。先生が(所属場所を)移りすぎるのは良くない。教育は4年間で完結しない。その後の目印になるためにも定点にいる必要がある。。

 弟子の思い込みは重要、意味の無いことをやらせる。例えばトイレ掃除。その意味は自分で考える。この学部に来たのはご縁である。先生を尊敬する。惚れて惚れて惚れぬく。あばたも笑窪と思うほうが楽しい。

 教育はプロテクションである。その囲いの中に入れない人が増えているように思われるが、社会の役割は何か。

 ルーティン業務だって面白がってやれば楽しくなる。人間は二重底になっていて、下方は判るが、上方は判らない。能力はあるだけでは駄目で、それを起動させるための能力を如何に活性化するかが重要。一番有効なのことは上機嫌であること。気持ちが暗い時はうまくいかない。機嫌が良いと言うことは、健康や色々なことが含まれる。そうであることが難しい。

 

 5問ほどの質疑応答は省略。楽しい90分でした。しかし、人の話を聞くのは難しく、自分の底が浅いとつくづく思いました。いまさらどうなるものでもありませんが、時間調整して残るテーマも聞きたいと思っています。

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