東海道五十三次・神奈川宿(江戸寄り)
「東海道五十三次・神奈川宿(江戸寄り)」を書き終えました。
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東海道五十三次・神奈川宿から保土ヶ谷宿への後半を書き終えました。
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『加藤周一 戦後を語る』
加藤周一著、かもがわ出版、3200円(税別)、2009年6月読了
未刊行1篇を含む10篇の講演集。第一次・第二次世界大戦、冷戦に言及しながら、底流に平和の希求がある。的を絞った話し方から、ゆるぎないリベラルな思想の訴えが伝わる。
『1941年12月8日、最初に感じたことは、これでおしまいだ。次は、もちろん敗戦だろう。そのころの日本の状況は、まず政党がなかった。まともな労働組合がどこにもありません。新聞は積極的に政府が気にいってくれることを書くように誘導された。
そのニュースを聞いたとき、突然、見なれていた本郷の風景がいつもと変わって見えた。少し時間が経って考えてみると、そんなに突然というわけでなかった。だんだんに来るという感じでありました。 ---- 「ある晴れた日の出来事」から要約引用』
この日の朝、新聞号外で真珠湾攻撃と太平洋戦争開戦を知る。変化には予兆がある。緩やかな変化は気付きにくいが、後で振り返れば急に変化したということではないのだろう。加藤の原点ははるか以前にあり、それゆえにこう感じたのだろう。極めて稀な考え方であったことは想像に難くない。
『1945年8月15日、私の最初の反応は生き延びたというか生きている。次に感じたのは生き残った。同じように生きるはずの友人を殺した戦争とそれを計画し命令した権力を許すわけにはいきません。これが二番目の感情。三番目の感情は、1945年の8月終わりから9月にかけての解放感です。 ---- 「ある晴れた日の出来事」から要約引用』
この戦争で300万人近くの日本人が死んだ。2000万人ともいわれるアジア、太平洋の人びとを日本軍は殺した。だから戦争責任がどうなるかと言えば、そこに出てきたのが「一億総ざんげ」。それを『実にけしからん言いかた』だと加藤は思う。
『新憲法ができたのは15年戦争を仕掛けて敗けた直後。日本が侵略戦争をもういっぺんやっては困るので、そうさせないために連合国が九条を作ったということはアジアおよび世界の常識。日本国民というより周辺国にとってもっとも関心が強いものだ。それをいっさい無視して、九条の問題でも靖国神社問題でも歴史教科書問題でも、これは国内問題だとか外国は口を出すなといった極端なことを言う人が最近出てきた。そうではなく、日本の憲法ができた環境ははじめから国際問題。その集中的表現が九条だ。 ---- 「九条と日中韓」から要約引用』
「九条の会」の呼びかけ人の一人。あちらでグローバル化、こちらで国内問題。物事を都合で歪曲してしまう風潮にいたたまれなかったのではないか。九条のグローバル化された意味がここに表出される。
大きな足跡を残したリベラルな思想家の原点に触れ、今に繋がる行動の背景を概観できる。読みやすい文書ではあるが一度で理解するには内容が膨大である。繰り返し読んで理解を深めよう。
一度で良いから、直接、話を聴きたかったとの悔いが残った。合掌。
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『漢詩』
松浦利久著、岩波新書・赤768、780円(税別)、2009年6月
本書で言う「漢詩」は中国古典詩形式の作品全体を指し、漢代の詩を特定するわけでない。しかし「第1章 詩人とその詩境」で取り上げるのは、陶淵明・李白・杜甫・白居易。うしろ3名が唐代の詩人であることからわかるように唐詩が重みをなす。
「第2章 主題とそのイメージ」「第3章 詩型とその個性」「第4章 詩跡(歌枕)の旅」「第5章 「文語自由詩」としての訓読漢詩」。
第5章は30頁に満たない。しかし、副題「日本の定型詩(和歌・俳句)との相補性」が示すように、日本の定型詩との比較において、異国の文学である漢詩が古くから親しまれてきた理由を掘り起こして興味深い。
5年ほどを経ての再読。前回はあっさり通り過ぎてしまった第5章、そこに気付いたことが再読の手柄あるいは年の功である。
日本の「文語定型詩」が日本人の詩情や感性を育てたことは衆知である。それと並行あるいは雁行して訓読漢詩の作品群が「文語自由詩」として日本人の詩情や感性を育ててきたとの指摘である。
五言絶句や七言律詩を中国古典定型詩と認識して親しんだつもりである。しかし、私を含む多くの方が訓読漢詩で親しんできたことは事実であろう。そのことを「従来はほとんど指摘されてこなかった」と言う点が新鮮である。当たり前過ぎることはなかなか気付かない。
文語自由詩としての訓読漢詩のポイントを次のように抽出し、例を挙げて説明する。
1. 「視覚的・観念的」には原詩としての定型性を保ちつつ、
「聴覚的・音声的」には和文詩歌としての自由律リズムを
生んでいる。という「二重性」を具えている。
2. 日本語定型詩における対句表現の乏しさを「訓読漢詩」が
きわめて有効に補ってきた。
3. 訓読してリズムの整わない作品は、日本漢詩の名作にはほ
とんどまったくない。
4. 最初に覚えた訓読詩句が深く体質化され、別の訓読に強い
違和感を感じやすい。
5. 「訓読漢詩」が「文語自由詩」として他では表しえない独
自のリズム感を相補的に表出している。
何となく親しんできた漢詩、その理由を指摘されたような思いがする。私の場合はリズム感が大きな位置を占めているような気がする。これまでよりは少し親しみの度合いが増すだろう。言及しなかったが「第4章 詩跡(歌枕)の旅」は旅心を誘われる。
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人の死は、瞳孔散大・固定、呼吸停止、心停止の三徴候で誰もが事実として認識できる。それならば脳死はどのように認識できるか。
脳死は所定の判定プロセスの結果として認識できる。ただし認識できるのは判定に携わる医師であって、家族等は判定に携わった医師の報告で知ることになる。それが死とは異なる。
脳死の判定プロセスは、(社)日本臓器移植ネットワーク・法的脳死判定マニュアル(以下マニュアル)を参照されたい。私は判らない部分が多い。言葉が判っても内容の判らない部分が多い。その中から脳死に至る推移のみを整理する。
脳死は「第2回目の脳死判定終了時(マニュアル:Ⅶ 脳死の判定時刻)」に確定する。これ以降が法的脳死。逆に言えば、これ以前は臨床的脳死(明確な定義の有無を私は知らない)。
第2回目の脳死判定の開始は「第1回目の脳死判定が終了した時点から6時間以上を経過した時点(マニュアル:Ⅵ 法的脳死判定における観察時間)」。「なお、原因、経過を勘案して、必要な場合は更に観察時間を延長する」との但し書きがある。
第1回目と第2回目の脳死判定の間隔を6時間以上とすることは判る。しかし、但し書き部分を私は判らない。ここに作為の入り込む余地は無いか。有るとは言わない。無いことをいかに担保できるかであろう。
第1回目の脳死判定の開始は臨床的脳死を受け入れた家族の同意による。
現行法はドナーカードで臓器提供の意思表示していて、かつ家族の同意のあること。運用に当たっては15歳以上の者の意思表示を有効としている。
改正臓器移植法A案は、本人の臓器提供の意思表示の無い場合でも、家族の同意があれば脳死判定プロセスを開始できる。本人の臓器提供の意思の有無に関わらない。かつ年齢制限も無い。
脳死判定の開始以前に、医師は臨床的脳死を家族に宣告する。
ここで死に至るプロセスを時間経過に沿って整理しなおす。
1. 医師による臨床的脳死宣告
2. 本人の臓器提供の意思表示の確認
(改正法ではスキップできる)
3. 家族の法的脳死判定プロセス開始の同意
4. 第1回法的脳死判定
5. 第2回法的脳死判定
6. 死(三徴候死)
生死の境目をさまよう本人を目の辺りにして家族は脳死判定プロセスに臨まなければならない。1~5は半日程度ではないだろうか。5~6はここで言及しない。
臓器提供は一人の法的脳死が前提となる。しかし死を迎えるかも知れない本人は、臓器提供を前提にしていないかも知れない。そのギャップを埋める努力がなされたであろうか。それは生死の間際にいる本人や家族の倫理観であり、脳死を人の死とすることの医学的な客観性・妥当性であろう。刑法も関与するだろう。ギャップを法律で埋めてしまうことに未成熟な社会を感じてしまう。
私の脳死に関する認識の整理である。お気づきの点があればご指摘願いたい。
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国会議員の何人がドナーカードを持つだろうか。プライバシだから強制されて公表すべきとは思っていなかった。
衆議院に続いて参議院も改正臓器移植法A案を可決した。「脳死は人の死」と考える国会議員が多数いた。死生観を変えることに一票を投じた国会議員が多数いたという事実。
現行臓器移植法は1997年10月に施行された。以来、脳死からの臓器提供は81例にとどまるとのこと。この間、「脳死は人の死」との死生観の変化をどれだけ浸透させようとしたか。ほとんどなかったように私は思う。
報道によれば、「改正臓器移植法A案が過半数の支持を集めたのは、衆院解散・総選挙も絡んで政局の流動化が予想されることから、今国会での改正実現を優先する議員心理が働いたものとみられる」との推測もある。事実とすれば許さることでない。
これほどあっさりと、私にはそう見えるが、改正臓器移植法A案が可決されるとは思わなかった。これほど毅然たる結論を導けるならば、公人たる国会議員はドナーカードを持つか否か自ら公表して良いのではないか。自らの確固たる死生観のもとに賛否を示したことの証として。
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横浜三渓園入り口から歩いて20分ほどのところに八聖殿、正確には横浜市八聖殿郷土資料館があります。見学は無料です。当日は講演会が開催されていました。
八聖殿は法隆寺夢殿を模した三層楼八角形の建物で、その中に聖徳太子・弘法大師・親鸞・日蓮・釈迦・孔子・ソクラテス・キリストの八聖の彫像が祀られています。過去に何回か出かけていますが最後はいつだったか、定かでありませんが遠い昔のことです。
ウォーキングの途中に八聖殿に立ち寄りました。八聖殿には八聖が祀られている、そう記憶していてそのことにに違いはありません。今回、とても興味深く感じられたのは郷土資料館の部分です。少し前までは漁港が連なっていた横浜の海岸線の様子が、写真や漁具で蘇ることです。
かって横浜市街から国道16号を南下し、元町を過ぎ三渓園入り口を過ぎて暫くすると海岸線に出ました。海には海苔ひびが広がっていました。房総半島が手に取るように見えました。私の知る範囲で、横浜の北の方から生麦、子安、本牧、磯子、柴の漁師町がありました。今でも残るところがありますが、なくなってしまったところもあります。東京オリンピックの頃からどんどん変化していきました。
郷土資料館に展示されている写真や漁具を目の当りにすると、かっての横浜の海岸線が髣髴されます。私の古い写真には、三渓園で海水浴した場面が含まれています。
今、横浜に自然の海岸線は無い思います。折りしも横浜開港150周年の各種催しが繰り広げられています。港を中心にして発展してきた横浜に自然の海岸線が無い、ブラックジョークのようでもあります。
発展することが悪いとは思いませんが、犠牲にしたものも大きかった。今になって気が付きます。八聖が生きていたらどんなことを言うでしょうか。聴きたい気がします。
横浜三渓園に出かる機会があれば、少し足を延ばして八聖殿にも立ち寄ってみませんか。
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指揮 サッシャ・ゲッツェル
演奏 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
曲目 モーツァルト:アダージョとフーガ ハ短調
モーツァルト:モテット「踊れ、喜べ、汝幸いな魂よ」
独唱:森麻季(ソプラノ)
マーラー :交響曲第1番 ニ長調「巨人」
会場 横浜みなとみらいホール(2階5列12番)
公演 2009年7月10日19:00~21:00(途中休憩15分)
「アダージョとフーガ」、弦楽合奏です。10分に満たない小品、初めて聴きます。モーツァルトにしては力強いメロディ。神フィルの弦、私は細かいところまで判るわけではありませんが、でも重厚で素敵です。
「モテット」、弦楽合奏にオルガン、ホルン×2、オーボエ×2です。モーツァルトらしい始まり、初めて聴く曲と思いました。しかし第3楽章の「ハレルヤ」が響いて、聴いたことがある。そう、ディアナ・ダービン主演の「オーケストラの少女」に使われていました。大分以前のTV放映で観ただけですが、それでも記憶に残る歓喜に満ちた「ハレルヤ」。
第2楽章のオーケストラの音が止んでソプラノ独唱、2000人の客席に響き渡るのは歌手冥利ではないかと想像します。澄んだ声、気になることはありません。私は2階席なので少し遠く聞こえましたが、どの程度の規模のホールが適当なのでしょうか、定員2000人は独唱には大きいように思います。第3楽章の「ハレルヤ」、宗教的倫理観さえ喚起されます。
「巨人」、ホルン×8が目立ちます。ゆったりと、しかし重厚に始まります。CDでは良く聴きますが、生では初めて。やはり音がみずみずしい。やがて管が重なります。第3楽章、聴いたことのある旋律、日本では「グーチョキパーでなにつくろう」で知られますが、ここでは荘重に響きます。第4楽章、ホルンパートが立ち上がり、高らかに奏でます。
管・打楽器、弦なら低声部が目立ちます。マーラーは、ハイドン、ベートーベンとは随分と異なります。3回目の定期公演ですが、神フィルの異なる一面を聴きました。プロだから何でもこなせるでしょうけど、重厚・荘重な曲もまた素敵でした。
指揮のサッシャ・ゲッツェルは、ウィーン生まれでヴァイオリニストから指揮に転進したそうです。40歳前の若手ですけど、随分と情熱的な指揮振りでした。動きは大きく、時には30Cmほども飛び上がったりして。そこだけ注目しても何も出てきませんが。前半と後半で雰囲気の大きく変わるプログラム、私はマーラーが特に良かった。定期会員は一年を通して同じ席ですが、たまにはオルガン前席で指揮者を正面から見たいと思いました。
休憩時間、常任指揮者の金聖響さん(プライベートだからさん付けします)がおられたので、「ブログには来られないと書いてありましたが」と声をかけました。「でもきちゃいました」だって。様子から後半になって来られたようです。やはり気になるのでしょうね。4月に常任指揮者の座に付いたばかりですが、長くいて欲しいものです。
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「SIZUOKA 春の芸術祭 2009」で「スカパンの悪だくみ」「ふたりの女」観劇後、静岡駅前で一泊。21階東向き角部屋でしたが富士山はいっときも姿を現しませんでした、残念。正面(東側)に静岡舞台芸術センター、右手の日本平北面に静岡舞台芸術公園(日本平北麓、位置は特定できず)が見えて、位置関係を確認しました。良い環境に恵まれていると思います。一泊したのは次の日に美術館巡りしながら横浜に戻ろうと思ったこともあります。
まず登呂遺跡に立ち寄りました。リニューアル中で見学は限られていましたが、それは承知の上。バス停近くの復元小屋付近をさっと巡りました。遺跡の際まで民家が迫っていてイメージと異なりました。でも少ない経験から、どこの遺跡も似たようなものです。驚くことはないのでしょう。私の場合、歴史的興味より、そこに人間が住んでいたという情緒的興味のほうが強いかな。
ビュフェ美術館は、フランス人ベルナール・ビュフェ作品のみを収蔵する個人美術館です。場所は東名高速裾野ICあるいは沼津ICの中間、山側です。
黒い太い線で空間を切り取っていく作風に惹かれていました。特に「マンハッタン(今回展示なし)」「カルメン」「青い闘牛士」などが強く印象に残ります。
開館は1973年、開館記念展示の「ダンテの神曲にもとづく三枚の連作」を観に出かけました。その後、何回か出かけましたが次第に興味が薄らぎ、足が遠のきました。
およそ30年ぶりの訪問です。「没後10年 ベルナール・ビュフェ展 ~作家自身によるキュレイションを再現~ (~7月14日(火))」を開催中でした。印象が大きく変わることはありませんでしたが、画家の変遷、自らの変遷を振り返ったような気がしました。
バンジ美術館は、ビュッフェ美術館からさほど遠くない所ににあります。共通入場券が販売されており、以前から名前も認識していたので寄ることにしました。彫刻作品が芝生の庭に点在していることが印象的です。室内展示もあります。ただ、作品に惹かれることはありませんでした。
ポーラ美術館に寄るかMOA美術館に寄るか迷いましたが、結局、ポーラ美術館へ。箱根・仙石原にあるガラスを多用した建屋も美しい美術館です。過去に何回か訪れています。
「肖像の百年 ルノワール、モディリアーニ、ピカソ (~9月6日(日))」を開催中でした。何枚かの画を確認しましたが、全て館蔵品でした。恐らく展示されている全てが館蔵品だと思います。泰西名画と総称して良いでしょうか。特に何かを強く刺激されることはありませんが、これが絵画だという安心感が伝わってきます。
後は一路横浜へ。
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演出 宮城聰
原作 唐十郎
美術 戸村孝子
出演 六条、アオイ たきいみき
光一 永井健二 ほか
会場 静岡舞台芸術公園・野外劇場「有度」
公演 2009年6月20、27日、7月4日
鑑賞 2009年7月4日 20:00~21:40
「SIZUOKA 春の芸術祭 2009」のスローガンは「帰りなんいざ古典へ!世界まさに荒れなんとす!」。
「唐十郎・ふたりの女」は1979年の発表、劇団・第七病棟(緑魔子・石橋蓮司主宰)により初演。事実を認識するもののその場に居合わせていない。この戯曲は ~唐版・葵上~ と明記されているように能・葵上が底本。だから古典、いや30年を経て「ふたりの女」が古典になった。
『伊豆の砂浜に建つ精神病院。アオイとの結婚をひかえた医師光一は、六条という名の患者に突然「あなた」と声をかけられ、アパートの鍵を渡されてしまう。光一がアオイと藤サーキットでレースを観戦していると、そこに化粧品販売をはじめたという六条があらわれ、光一に髪油を渡す。アオイはこの髪油をつけてときから、次第に六条に取り憑かれていくようになる・・・・。(パンフレットより)』
光一を中にして対峙するかに見えるふたりの女、六条とアオイ。アオイはやがて六条に同化して逝ってしまう、なぜだろう。新興宗教まがいの集団にありそうな情景。演劇は現実世界に追い越されたか。なぜだろう。
容易には判らない。判らないけど思考を停止させてはいけないだろう。
舞台後方のホリゾントは有度の森。床には長方形の木枠を隙間無く敷き詰めてある。柱を横にして積み上げた三日月状の構造物は左右から高さを増して中央で人の背より高い。中央部から後方に向って枝分かれ、枝は森の闇に繋がる。
耳を劈くようなロック系音楽で始まる。一気に焦燥感が込み上げる。続いてマーラー・大地の歌、厭世観が広がる。パットブーン・砂に書いたラブレターは「On a day like today / We passed the time away / Writing LoveLetter in the sand・・・」、過ぎにし時間。追い討ちをくわせるように、クラベス(サンバなどで使われる拍子木)、電子音が時を刻む。
全てが不安定のなか、周囲から切り離されたかのように行動する光一。やがてアオイを自死に追い込み、六条は自らが首を絞める。淡々と演じて永井健二は腺病質な光一を浮かび上がらせた。
首を絞められてなおしな垂れかかる六条。たきいみきは、六条、アオイの二役を妖しく美しく演じた。存在感を感じさせる。
全体にシュールでありながら滑稽さを内在していた。それが光一とアオイ、六条の関係をより鮮明にした。
疲れた。しかし見ごたえがあった。
雨具とクッション必携の野外劇場。数日来の様子から雨を覚悟の観劇だったが幸い雨粒一滴すら落ちず。
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演出 オマール・ポラス
原作 モリエール
出演 テアトロ・マランドロ
会場 静岡芸術劇場
公演 2009年7月4、5日
鑑賞 2009年7月4日 14:05~15:50
二家族が交錯する。父親の旅行中に父親の承諾なしに身分の低い娘と結構した息子。一方母親の旅行中に母親の承諾なしに身分の低い娘と結婚してしまった息子。そればかりでなく借金も抱えてしまった。親が帰ることになって困った息子たちは、召使のスカパンに各々の親が結婚を承諾させるように依頼する。
ところが、息子たちの結婚した娘たちは双方の家の娘たちであったという結末。
その間を埋めるスカパンの悪巧み。けちな親から金を騙し取り、結婚を承認させ、この際とばかりに親を痛めつける。が、それもつかの間のことでばれてしまう。
言語上演で字幕つき。顔の上部を覆うマスク着用のようだ。舞台は居酒屋風、上手にカウンター、下手のジュークボックスから流れる音楽は今風。
初めて見る戯曲、演出家、俳優たち。初物づくしであるけれどそういうことを強く感じさせない。上質のコメディ、1時間45分の上演時間は短くないが飽きることはない。役者は達者、演出は手馴れている。そればかりでなく親愛感を感じさせる。それが何であるかはっきりしないが、コメディの本質を外さないためだろう。
古典が現代に繋がる。いつの時代にもスカパンは居る。二日間の上演期間しかないがはもったいない。
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