白想:セザンヌの塗り残し
「横浜美術館・セザンヌ主義展」に、散歩途中で立ち寄りました。2日と14日。「セザンヌ主義展」はこれで3回目になります。
初回は全体を丹念に見ましたが、2・3回目は人物画を主体に見ました。、特に「青い衣装のセザンヌ夫人・ヒューストン美術館蔵」と「縞模様の服を着たセザンヌ夫人・横浜美術館蔵」の前で暫く足を止めます。制作年は、「青い衣装」が「縞模様」の5年後になります。
この二作品は隣同士に展示されています。なにか絶対に隣同士に展示するという強い意識が存在するように思います。無意識に展示されることなど無いでしょうけど。
「縞模様」は横浜美術館の常設展示ですから既に数十回は見ています。重厚な印象です。絵の具が厚く塗ってある訳ではありませんが、色調や背もたれ椅子によりかかったポーズなどから、そのような印象を受けます。
「青い衣装」もモデルの表情は硬いものの、少し軽やかな衣装、背景、色調などから、セザンヌがイメージできます。
ところで「セザンヌの塗り残し」、気の利いたフレーズが私の口から出るわけはありません。「洲之内徹著・セザンヌの塗り残し・新潮社」からの借用です。美術に関するエッセイ集、各テーマは10ページほどにまとまっています。書名であり、あるエッセイのテーマが「セザンヌの塗り残し」。
「この前の、セザンヌ塗り残しの話、面白かったですね」「僕が言ったの?何を言ったっけ」という前置きがあって、言ったとすれば、こういう風に言ったはずだ、と。
「つまり、ゼザンヌが凡庸の画家だったら、いい加減に辻褄を合わせて、苦もなくそこを塗り潰してしまったろう。凡庸な絵かきというものは、批評家も同じだが、辻褄を合わせることだけに気を取られていて、辻褄を合わせようとして嘘をつく。それをしなかった、というよりもできなかったということが、セザンヌの非凡の最小限の証明なんだ」・・・
「私はまた、この頃、眼の修練ということを考えている。絵から何かを感じるということと、絵が見えるということとは違う。これまた、これだけでは到底わかってもらえそうもないが、私が身にしみて感じる実感なのだ」
この本は昭和58年1月発行、直後に一読したと思います。西暦で言えば1983年発行、四半世紀が過ぎました。少し洲之内徹の考えが感じられてきました。言った本人が忘れているようなことですが、何か重みを感じます。理解できたとは思いませんが。
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