路上観察:太宰府へ(その3)
政庁通りを歩いていくと、急にと思えるような感じで大宰府政庁跡正面に出ました。都府楼跡とも呼ばれる大宰府政庁跡、鮮明に意識したのは「松本清張・時間の習俗」によります。それ以来、数十年を経てその正面に立ちました。
大宰府政庁跡は、九州全体を治める役所・大宰府のあった所です。奈良・平安時代を通じて九州の統治、防衛、外交の窓口として重要な役割を果してきたそうです。今の大宰府政庁跡には立派な礎石が残るだけです。しかし、役所やそれらを結ぶ回廊が、小さな都を思わせるように連なっていた様が浮かんできます。そして、古人の行きかった姿も。
あおによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は
咲く花の薫ふがごとく
今盛りなり
あまりにも有名な一首、「小野老」が大宰府に着任した時の宴席で披露した歌と知りました。着任間際の「小野老」が、長く都を離れている仲間に、奈良の都は花盛りのように栄えていると伝えたのでしょう。座はやんやの喝采だったでしょうか、それとも都を思いだして一瞬静まり返ったでしょうか。私は後者のようであったと思えるのです。今のように簡単に行き来できる距離ではなかったでしょうから、いつ戻れるかなどと思ったのではないでしょうか。
大宰府政庁跡を後にして太宰府天満宮に向かいます。まっすぐ歩けば30分ほどの距離だと思いますが、寄り道しながら進んだので正確にはわかりません。
最初に寄ったのが戒壇院。戒壇とは僧尼として守るべき戒律をさずける所。戒を受けて初めて正式の僧尼と認められます。鑑真が苦労の末に日本に渡ってきたのは、戒を授けて真の僧尼を生み出すためです。堂内の本尊・廬舎那仏は平安時代末の作で重要文化財だそうです。脇侍二体とともに静に彼方を見つめていました。
次に寄ったのが観世音寺。斉明天皇追悼のために天智天皇の発願によって建られた寺で完成は奈良時代。今は往時の面影はなく、江戸時代初めに再建された講堂と金堂(県指定文化財)が残るのみです。しかし、宝蔵には重文級の多くの仏像が納まっており、ありし日の繁栄をうかがうことが出来ました。この空間は凄い。
学問の神・菅原道真をまつる太宰府天満宮。901年右大臣から突然大宰府の役人に任命された道真は2年後、この地で亡くなります。その墓の上に建てられたのが天満宮。都府楼跡に比べると人手は多いのですが、思ったよりは少ないと感じました。季節季節の行事には多くの人が押し寄せるのでしょうか。
ふと思い浮かぶのは「吉田玉男の管原伝授手習鑑」、5・6年前、大阪の国立文楽劇場で前半を観ました、今にして思えば通しで観なかったもとが悔やまれます。吉田玉男・最後の菅原伝授だったと思うのですが。
注:昨年中に書き終わったと勘違いしていました。遅くなりましたが掲載します。
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