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2007年10月20日 (土)

美術:その後の「Y市の橋」

 横浜駅の北側を「派新田間川」が、南側を「帷子川」が流れます。このことを知ったうえで、2003年1月、他所に書いた拙文の引用を読んで下さい。

 『帷子川が、横浜の自宅から数百メートル離れたところを流れています。あのあざらしの「たまちゃん」の出現した帷子川です。(中略)

 帷子川河口から上流に向かって右側が「そごうデパート」、左側がみなと未来地区の北端、JR貨物東高島駅跡です。(中略)

 大正に生まれ、30半ばで短い生涯を終えた画家・松本俊介は、「Y市の橋」の傑作を残しています。ほとんど同じ位置で描かれた「横浜風景」「運河風景」もあります。
 新田間川は帷子川河口から数Km上流で分かれ、JR横浜駅の北側をかすめて横浜港に注ぎます。新田間川の最も下流を国道1号線が横切りますが、そこに架かる橋が金港橋です。その30mほど上流に架かる橋が月見橋。川の上 を高速道路が横切ったりして様変わりしていますが、紛れも無い「Y市の橋」がそこに存在します。  2003/01/22(水) 』

 4年程の時間が流れました。「たまちゃん」は、今頃大海原を泳いでいることでしょう。
01  JR貨物東高島駅跡には日産本社ビルの建設が始まり、川を跨いで横浜駅と港未来地区を結ぶ「ペデストリアンデッキ(歩行者専用デッキ)」が姿を現し始めました。日産本社ビルの設計は、「豊田市美術館」「坂田市土門拳記念館」など静謐な美しさを感じさせる建築家・谷口吉生と知りました。変化に棹差す力など毛頭ありませんが、せめて美しく変化して欲しいものです。期待しています。

02 「Y市の橋」は「月見橋」という美しい名前を持ちます。「金港橋(国道1号)」越しに見た月見橋(最初の写真)、奥に小さく見えます。左手はJR横浜駅。金港橋から見た現在の月見橋(二番目)、首都高速・三ツ沢線が上部を塞いでいますが、「Y市の橋」とほぼ同じ光景です。金港橋の右寄りの位置で絵が描かれた筈です。横浜駅東口と西口を跨ぐ人道橋が確認できます。月見橋の北側から見れば、横浜駅が一望(三番目)できます。横浜駅構内の一番北側(東京寄り)に立てば、人道橋(四番目)がほとんど頭上に見えます。

03 引用文中に誤りがあります。「新田間川は帷子川河口から数Km上流で分かれ」と書いていますが、横浜駅西口地区の開発のため途中を埋め立てられています。よって月見橋が架かる川は「派新田間川」。「派」は「派生」の「派」だと想像します。海から遡ってもすぐ行き止まり。そういえば、西口周辺を歩いていると川の流れがおかしいと思うことがあります。ようやく理由がわかりました。そして私の誤解も。

04 遡れば埋立地に作られた人工の川ですから形が変わってもおかしくありません。橋は同じでも、いや、月見橋にも「平成8年竣工」の銘板がはめ込まれています。二代目でしょうか。

 蛇足ですが、新田間川は「あらたまがわ」。今までは「しんたまがわ」と読んでいました。今回、多少の調べ物をして間違いに気づきました。地名は大切になどと書くせに、深く反省。

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コメント

「Y市の橋」の今をつくづくと眺めました。
お住まいの近くなんですねぇ。
あの絵はとてもいい絵だと思いますが、とても陰の濃いものとして私には感じられました。黒い線があまりにきっぱり潔く描かれているからでしょうか。

私は今日「お芝居デリバリーまりまり」の路上ライブを観てきました。代々木公園です。
宮城さんの元で芝居をしていた役者さんの。
土曜の原宿は賑やかで、カラスと太鼓の音が絶え間なく耳を襲う中での、
三島由紀夫の「卒塔婆小町」でした。

投稿: strauss | 2007年10月21日 (日) 00時17分

 Strauss さん引用の松本竣介の言葉、「人間の性格は生まれた時から社会の影響を受ける。曲がった事を向かえようとする人ができる。それをできるだけ人間本来の性情にしようとする処に芸術の任務があるのだ。芸術家は、人間性による人間性の洗濯屋である。」にしても、随分と大上段に構えた内容です。両足を踏ん張った「立てる像」にしても随分と自己主張が強い。何かに向かう青年の気負いでしょうか。戦争の影響も否定できないように思います。

 曲がった事とは何だったのでしょうか。平和な時代に生きていたら、あるいは Strauss さんの感じる濃い影は表現されなかったかも知れません。私は多くの松本竣介の絵から、寂しさを感じます。 Strauss さんの感じる濃い影と同類かも知れません。

 たとえ気負いだったとしても、松本竣介のような気持ちを、今の時代も求めているように思います。それを否定しようとする人も少なくないのですが。
 

投稿: F3 | 2007年10月21日 (日) 01時22分

この言葉は19歳の時のものですので、正義感も強い時期だったとは思います。
作風には戦争の影響が大きいでしょうね。
平和な時代になって、人が影の部分を敢えて見ないように明るい方へと向かうのは、ある面良い傾向もあるでしょうが、見えすぎて見えなくなっているものも多いような気がします。
仰るように今の時代が求めているものかもしれませんね。

投稿: strauss | 2007年10月21日 (日) 11時24分

 須之内徹が、「盗んでも手元に置きたくなるような絵がよい絵だ」という主旨の一文をどこかに書いていました。私にとって、松本竣介は盗むに値する(?)絵です。それにしても、横浜の空は随分と狭くなってしまったと、「Y市の橋」を見て(インターネットですが)感じています。なんだか本物を観たくなりました。岩手県立美術館蔵のようですから容易に観ることは叶いそうにないのですが。

投稿: F3 | 2007年10月23日 (火) 18時05分

はじめまして。
トリエンナーレディレクター水沢氏の
横浜美術館講演会の記述から
失礼いたしました。

松本俊介は好きな画家です。
「Y市の橋」こことは知りませんでした。
 
身近かに通っていたこの風景だったとは…


どこだろろう〜と想像しながら
鎌倉の美術館で懐かしい思いにかられたのは
図録で見た記憶の積み重ねと思っていました。
偶然のつながりに喜びさえ感じまた。

投稿: 女三宮 | 2007年10月27日 (土) 12時12分

 こんにちは、女三宮さん。
 拙文に多少なりとも喜びを感じて頂ける部分があれば、望外の喜びです。この記事は、私の記事のなかでは随分と多くの方に読んで頂いているようです。「Y市の橋」に反応して頂いている、すなわち、松本俊介ファンが多いと言うことと思っています。
 これからも記事を掲載していくつもりです。よろしくお願いします。

投稿: F3 | 2007年10月27日 (土) 13時52分

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