「横浜市内にある幻の廃線跡」のこと
私が小・中学生のころ、国鉄(当時、1982年にJRへ)職員を親にもつ友達が多くいました。学区内に国鉄官舎があったからです。官舎は庭付きの一戸建て、庭があってまさきの生垣が取り囲む形式が多かったように思います。
初夏の頃でしょうか、ホンチと呼ばれる蜘蛛二匹を喧嘩させる遊びがありました。横浜近辺の遊びでしょうか、それとも全国で行われていたのでしょうか。官舎の生垣はホンチを探す絶好のポイントでした。
官舎は東西に一直線に並んでいました。決して二列になることはありません。途中、警察署や消防所などで途切れる部分はあります。しかし、官舎を繋げばあくまで東西一直線なのです。
官舎を延長すれば、横浜駅付近と下り方面の次の駅である保土ヶ谷駅(東海道線は停車しない)の途中で接するような感じです。最も離れている地点で南へ300メートル程度、現在の横浜駅を基準にすれば、駅を出た電車は少し南下してから西に向きを変えるような感じです。
子供の頃は友達の家としか思いませんでした。しかし、いつの頃からか、これは線路跡ではないかと思うようになりました。思いは思いのまま、恐らく数十年が続きました。
現在、横浜駅は東急東横線の地下鉄乗り入れに伴う改良工事が続いています。新しい通路ができたりして、その壁面に横浜の歴史のようなことが書いてあったりします。そのなかの古い地図を見て目の上の鱗が落ちました。やはり、線路跡と思っていた場所は、昔、東海道線が通っていたのです。
現在の横浜駅は三代目。初代横浜駅は現在の桜木町駅、汽笛一声新橋を離れた汽車が到着したところ。二代目はその中間、今は廃線になった東急東横線高島町駅付近。現在の横浜駅を基準にすれば、南に300mほど離れた位置と推定できます。
『1928年(昭和3年)10月15日 - 横浜駅がさらに北側、現在地に移転。東海道本線を現在のルートに変更。出典: フリー百科事典ウィキペディア』
三代目の横浜駅、すなわち現在の横浜駅の誕生です。そして、幻の廃線跡が出現したということのようです。廃線跡と判れば、後はいくらでも調べることはできます。が、それはここまでにしておきます。
さて官舎ですが、その後JR社宅に変わりました。社宅になったのが早いか、建て替えられたのが早いかは定かでありませんが、ホンチをとった当時の社宅はとっくにありません。そのJR社宅も、最近、全ての人が立ち退いたようで、人が入れないように周囲を囲んでしまいました。今後、JR社宅がどうなるかは知りません。
私の小・中学校の友達もずいぶん以前に他所に移っています。50年ほど前の思い出がさらに遠のくようです。
「竹馬や いろはにほへと ちりじりに 万太郎」
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