東京都現代美術館「大竹伸朗 全景 1955-2006」展のこと
暗闇に赤く「島」の一文字、島を離れるフェリーのデッキから見つめていました。直島を始めて訪れたのは2001年のスタンダード展でした。
「大竹伸朗 全景 1955-2006」展を観に行って東京都現代美術館の正面に立った時、屋上に「宇和島駅」のネオンが目に入りました。あの「島」の一文字の原形です。まさか、再び目にするとは。
なぜ宇和島駅。答えは簡単、不要になったネオン管を作品としだけでしょう。不要のネオン管は産廃と認識されますが、大竹はそこに芸術性を発見します。帰り際、暗くなった空に赤々と「宇和島駅」が浮かんでいました。東京なのになぜ宇和島駅、それだけで問題提起されています。そこに大竹の本質が現れているように思います。
作品は見方によってはごみです(失礼)。でも失礼なことはないのかも知れません、確信犯ですから。ゴミは最初からごみではありません。ごみを再構成すれば作品が完成します。新たな役割が与えられます。私は肯定的に作品に接しましたが、どのようなメッセージを受け取るのか、どのようなメッセージを再発信したら良いか、本当のところはよく判りません。
1955-2006 は大竹の生涯を意味します。と言うことは51歳。電気仕掛けの楽器を遠隔演奏する大竹は実に若い。と、そんなことはどうでも良いのですが。
51年の軌跡は2000点ほどの作品で示されます。どの部屋も、壁面が見えなくなるほどの展示、量の多さも特筆ものです。小学生の頃の作品もあって、それも、なかなかしゃれた仕上がりで感心します。おもわず物持ちが良い、と思ってしまいます。考えるのは後でも良いから、その大量の作品と対峙することが直面する課題です。観てまわるのも体力がいります。大竹のエネルギーと格闘することになります。
順路の初めに、若い頃からつくり始めた何十冊かのスクラップブックが展示されています。スクラップブックは何かテーマを決めて収集するものですが、大竹のそれは手元にあるもの、残ったものを何でも貼り付けているように思います。とても一つ一つを見ている時間も無い(ケース内展示ですので見ることもできません)のですが、これだけ徹底してスクラップされると、もはやごみとは言えません。
順路の終わりの3階まで吹き抜けの空間に、7・8mの自由の女神、緞帳風の作品、それと遠隔演奏ノイズバンド「ダブ平&シャネル」が展示されています。廃材で作られた舞台と少し離れたところに操作小屋があり、そこで大竹が演奏(操作)していたので、しばし音楽鑑賞をしました。
モータの回転運動を上下の運動に変換してギターを弾く、ギターの中心を軸にして正逆転を繰り返す途中にピックがあって音を奏でる。電気仕掛けでドラムを叩く。紙を破る音、マットを叩く音など、およそ音楽らしくない音が現代音楽に取り込まれることを思えば、これも立派な音楽として成立します。ごみ同然の楽器から音がでることに面白みを感じます。
「音すれど聴こえず、物あれど見えず」。先哲の言を持ち出すまでも無いのですが、日ごろ、私は何を見、何を聞いているのでしょうか。そんなことを思い起こさせる「大竹伸朗 全景 1955-2006」展でした。
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コメント
はじめまして。
大竹伸朗で検索して辿り着きました。
記事、読みました。
展覧会、迫力合って、圧倒されました。
TBさせて頂きました。
投稿: KH | 2006年12月10日 (日) 01時19分