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2006年10月25日 (水)

ララ物資のこと

 散歩の途中で香淳皇后の歌碑が目に留まりました。上五に「ララの品」とあるので、ララ物資のことだと思って丁寧に見てきました。歌碑は、横浜港未来21地区赤レンガ倉庫から、海縁に沿ってランドマークタワーの方へ向かって5分ほど歩いたところです。歌碑には次の二首が刻まれています。

  ララの品つまれたる見て とつ国のあつき心に 涙こほしつ
  あたヽかきとつ国人の 心つくし ゆめなわすれそ時は へぬとも

 歌碑の脇の立派な石碑に次の文書が刻んであります。

  第2次世界大戦後の多くの日本人を救った「ララ」物資

  第2次世界大戦終戦直後の混乱期、日本は衣食住すべてに不自由してい
  た。こうした中、全米の各宗教団体を中心とする海外事業運営篤志団ア
  メリカ協議会は、特に日本をはじめアジア諸国の救済事業を行うために
  『アジア救援公認団体』を設置し、ミルク類、穀物、缶詰類、油類等の
  食料をはじめ、衣類、医薬品、靴、石鹸、裁縫材料などの消費物質のほ
  か、乳牛や山羊などを送り、多くの日本人を救った。
  この物資の送り出しにあたっては、当時の在米邦人組織の方々の多大な
  ご尽力もあったと伝えられる。
  この救援物資は、『アジア救援公認団体』の英語名”Licensed
  Agencies for Relief of Asia”の頭文字から「ララ」物資と呼ばれ、
  昭和21年11月30日に「ララ」物資を積んだ第1船ハワード・スタ
  ンズペリー号が、ここ横浜新港埠頭に接岸し、以後昭和27年6月まで
  の6年間送られ続けた。
  記念碑の香淳皇后御歌は、昭和24年10月19日に昭和天皇と香淳皇
  后が横浜の「ララ」倉庫に行幸啓になられた時に詠まれたものである。
  「ララ」物資を送って頂いた方々への深い感謝と、当時ご尽力された方
  々のご功績を後世に永く残すため、多くの方々からの募金によりこの記
  念碑を建立する。

  平成13年4月5日
                           「ララ」の功績を後世に残す会

Img_0093 ララがララ物資であることは思い浮かびますがそれ以上のことは知りませんでした。この歌碑から戦争の悲惨さは微塵も伝わりません。私は俗に言う段階の世代に属します。すなわち、太平洋戦争を経験していません。しかし、敗戦後の困難な状況を子供心にかすかに覚えています。最近、それで良いかと思い、関連する本を読むようにしています。例えば、敗戦後の困難な生活の様子は、『誰も「戦後」を覚えていない・鴨下信一著・文藝春秋社発行』から想像できます。参考のため一部を引用しておきますので、興味惹いたら是非とも全文を一読して下さい。

  敗戦のレシピ --代用食を美味しく食べる方法

  国策炊き -- 玄米でも七分搗きでも同様、米を水に漬け、浮き上が
  った塵を流す程度にして笊にあげて水を切らずにそのままちょうど20
  時間おいて炊き出す。この間に充分に水を吸った米は成分を最高度に膨
  張させるのである。

  大根めし -- 玄米を早く炊き上がらせるためと、玄米の栄養上の欠
  点を補う意味で大根を入れて炊くとよい。

  代用醤油 -- 濃い塩水で昆布、若布、ひじきなどの何でもいいです
  から海藻類を気水に煮込みますと、色といい味といい醤油に近いものが
  できます。

  進駐軍の放出物資 -- 致命的な飢餓状態を救ったものに進駐軍の放
  出物資がある。これが配給ルートにのせられてずいぶん助かったことは
  間違いない。しかし友達の誰に聞いても、あの<乾燥卵>には参ったと
  いう。卵の黄味を乾燥させて粉にしてある、これを水に溶かして卵焼き
  にする。あの時代、天来の美味といいたいところだが、これが不味い。
  それだけではすまない。これを10日も続けて、(これだけを)食べろ
  というのだ。

 想像できますと書きましたが本当に想像できるでしょうか。想像できないと戦争の悲惨さも理解しにくいかも知れませんが、いかなる理由があろうとも戦争は許されるものではないと思います。

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