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2006年9月

2006年9月25日 (月)

大山に登ったこと

 昨日(23日)大山に登りました。大山とは、相州大山(おおやま)のことであって、伯耆大山(だいせん)のことではありません。日本語は難しいです。関東圏の人は相州大山のことを思うでしょうし、関西・中国圏の人は伯耆大山のことと思うでしょう。登山やハイキングに関心の無い人は、どうでも良いかも知れません。

Ooyama  下り東海道新幹線が新横浜を出発して10分ほど過ぎると、関東平野に終止符を打つかのような山並が目に入ります。丹沢山塊ですが、その一番手前に毅然と聳える独立峰が大山です。標高1250m余、別名を雨降山(あめふりやま)。山岳信仰の山でもあって、中腹に阿夫利神社下社が、山頂に前社、奥社があります。

 大山に登るのも久しぶりですし、ハイキングらしいハイキングも一年ぶりです。珍しく会社の仲間と一緒でした。何の拍子に大山に登ることになったかは、鮮明な記憶が残っていません。たぶん、体力作りに関する話題あたりから発展して決まったと思います。

 8時30分ケーブル下バス停到着。9時全員集合、予定とおりに出発、女坂を登ります。女坂とは言え、歩き始めに階段続きは応えます。9時45分下社下に到着。下山後に参拝することにして、見晴台へと歩を進めます。ゆるやかな登りで、ようやく調子が出てきます。10時過ぎ見晴台到着、小休止。名前のとおり大山東面が見渡せます。台風の影響か風は強いものの朝方の曇りから好い天気に変わっていました。

 10時15分出発、本格的な山登り開始。道は結構荒れています。登山者が多いせいでしょうが、自然保護の観点からどこでバランスをとれば良いのか、しばし頭を悩ませます。結論なし、そう簡単に結論が出るわけありません。途中の小休止、木々の切れ目から相模湾が見えます。西は真鶴岬、東は相模川河口辺りまで確認できますが、その先は霞んでいます。一しきり歩いて12時20分過ぎに山頂到着、結構大勢の人がいました。雲は北から南へ勢いよく流れますが、南側の多少低い部分は風の影になって、さわやかな秋を感じさせました。昼食。

 13時下り開始。やびつ分岐、本坂を得て45分ほどで下社前に到着。岩だらけの歩きにくい道ですが、上りに比して快調に降りてきました。この先、バス停までケーブルに乗りたい人もいるかと思い、15分ほど休憩して14時解散。

 私は多少歩き足りないのでみんなと別れて自主トレ。下社から蓑毛分岐へ、この間ほとんど高度差なし。蓑毛分岐から高取山、弘法山を通過、その先鶴巻温泉駅へ向かうつもりが、いつもと違う道を歩いたら一駅となりの東海大学駅に出てしまいました。16時。下社から3時間、多少の筋肉痛は覚えたものの久しぶりのハイキングを無事走破。事故があってはいけませんが。

 ルートはこちらを参照願います。添付写真はストックから探したもので、厚木市金田、国道246号と129号が交差する付近から見た大山です。

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2006年9月20日 (水)

私的名所・その2:御堂筋の芭蕉終焉の地

 今回の話題は御堂筋(みどうすじ)の説明から始めます。

 大阪市内の道路は、南北方向に延びるのものを「筋(すじ)」、東西方向に延びるものを「通(とおり)」と言います。ゆえに、御堂筋は南北方向に延びる道路であると知れます。大阪市においてキタとミナミは、各々、梅田と難波を表す固有名詞です。御堂筋は、キタとミナミを結ぶ全長約4km、幅約44m、6車線の大通りです。

 では御堂筋の御堂とは何でしょうか。
 道路の中間点あたりに、やや離れて北御堂(西本願寺津村別院)と南御堂(東本願寺難波別院)があることに由来するようです。繊維問屋が軒を連ねる船場は、北御堂と南御堂の中間です。

 御堂筋の名前は以前から知っていました。欧陽菲菲・雨の御堂筋は1971年のヒット曲ですから若い方は知らないでしょう、それともカラオケで知っているでしょうか。私もその程度でした。詳細を知ったのは、一時期大阪市の隣の尼崎市で生活していて、大阪へも良くタウンウォッチングに出かけたからです。

Basyo さて、膳所に葬られている芭蕉は、元禄7年(1694年)、旅の途中の大阪で51歳の生涯を閉じています。終焉の地は、当時、南御堂前にて花屋を営んでいた花屋仁左衛門の屋敷でした。

 辞世の句「旅に病んで ゆめは枯野を かけまわる」を刻んだ句碑が南御堂内にあります。芭蕉句碑は、門を入ったら左30度ぐらいの方向に歩いていくと見つかります。南御堂では、芭蕉を偲ぶ法要が毎年勧修されているようです。

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2006年9月18日 (月)

神戸・六甲全山縦走大会のこと

 運動、といえば「歩く」ことに等しい状況ですが、それも最近は少なくなっていました。思い出したように走ったり自転車に乗ったりするのですが、定期的に継続するに至りません。ハイキングもここ一年、とんとご無沙汰です。
 仕事の都合で週に数回、横浜・名古屋間を行ったり来たりするので、時間の余裕が少ないこともあります。しかし、単なる言い訳かもしれません。

 参加しようかしまいか迷っていた「六甲全山縦走大会2006年」にエントリーしました。書類に記載ミスが無ければ、暫くして参加証が送付されてくるでしょう。現時点での多少の心配事は、トレーニング不足と右足土踏まずから踵にかけての痛みが続いていることです。

 神戸市・六甲全縦市民の会共催の六甲全山縦走大会は、11月に2回開催されます。少しでもトレーニング期間を確保するために遅いほうの23日を選択しました。あと2ヶ月ありますので何とか間に合わせようと思っています。

 兵庫県尼崎市周辺で生活した7年有余の特に後半は、六甲山系ハイキングで体力を維持し、季節の移ろいを感じていました。途中の休憩などで一緒になる方々と一言二言声を交わせば、話題が全山縦走になることが多々ありました。六甲山系ハイカーの究極の目標は六甲全山縦走かも知れません。

 六甲全山縦走のルールは簡単です。朝5時から7時の間に、明石海峡大橋を間近にみる須磨浦公園をスタートし、数箇所のチェックポイントを通過して夜22時40分までに宝塚歌劇で有名な宝塚のゴールに自力で到達することです。
 ただし、距離は公称56Km、標高差合計3,000mで半端なものでありません。よほど足の早い方で無い限り、後半の10、15Kmは日が暮れてからの歩行になります。キャップライトなどで足元を照らしながら宝塚を目指すことになります。

 私は2002、3年に参加、完走できました。
 2年の時は、ゴールに到達してから、やればできるものだと自分の力を見直しました。帰路、足を引きずるように駅を昇降した思い出が残ります。3年は2回目だったので、比較的淡々と宝塚にゴールしました。足を引きずることもありませんでした。

 昨2005年は参加手続きをしましたが、スタートすることなく終わりました。
 トレーニングで登った三重県の御在所岳の下りでバランスを崩して左胸を強打、そのまま下山しました。が、10日しても痛みが引かないので医者に行ったら、肋骨にひびが入っているとのこと、当日までに完治することもなさそうだったのでやむなく参加を取りやめました。

 今年こそ、申し込みした以上は3回目の完走と思っています。これから2ヶ月間のトレーニング次第です。昨年は春先からトレーニングを開始していたのですが、今年はかなり遅い開始になりました。先週末から少し長距離を歩くようにしています。昨日(17日)は雨模様のなか、横浜ツーデーマーチの40Kmコースに沿って27Kmほどを5時間半ほどで歩きました。アップダウンは無いのですが、トレーニング開始早々ですからまあまあの状態でしょう。本番では、麻耶山への長い上りの最中かも知れません。

Image5_1  興味をもたれた方はいらっしゃいますか。残念ながら今年は参加申し込みを終了しています。来年まで満を持して待って下さい。添付写真は2003年の全山縦走のとき撮影したものです。

 「変様する港街から」の港街とは、神戸でなくて横浜のことです。が、どうも横浜以外の話題ばかりです。そのうち軌道修正します。

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2006年9月12日 (火)

私的名所・その1:膳所の義仲寺

 世の中に名所は多々あります。そういう世間の合意は一切無視して、私が思い込んでいる名所、すなわち私的名所を順次ご案内しようと思います。この私的名所は、多くの方から無視されそうに思います。が、お一人でも興味を持って頂けたり賛意を評して頂けることを、望外の喜びとします。

 膳所と書いて「ぜぜ」と読みます。JR膳所駅あるいは京阪膳所駅がありますが、難読駅名でしょう。京阪電車大津線公式HPに難読駅名が掲載されていますので、次に引用しておきます。答えはHPを参照してください。私は20問中6問正解でしたが、近所に住んでいたことのある駅もあるので実質4問正解。う~~、残念。

   A.稀府(北海道・室蘭本線)        B.艫作(青森・五能線)
   C.吉里吉里(岩手・山田線)        D.及位(山形・奥羽本線)
   E.南蛇井(群馬・上信電鉄)        F.飯山満(千葉・東葉高速鉄道)
   G.勝木(新潟・羽越本線)         H.京終(奈良・桜井線)
   I.放出(大阪・片町線)          J.唐櫃台(兵庫・神鉄有馬線)
   K.太秦(京都・京福嵐山本線/JR山陰本線)  L.布忍(大阪・近鉄南大阪線)
   M.大物(兵庫・阪神本線/西大阪線)      N.青木(兵庫・阪神本線)
   O.柴島(大阪・阪急千里線)        P.畦野(兵庫・能勢電鉄妙見線)
   Q.売布神社(兵庫・阪急宝塚線)      R.喜連瓜破(大阪・地下鉄谷町線)
   S.川内(鹿児島・鹿児島本線/九州新幹線)  T.頴娃(鹿児島・指宿枕崎線)

Zeze1 話を元に戻します。
 滋賀の大津には紫式部ゆかりの石山寺、三井寺こと園城寺の両古刹。その中間に膳所の義仲寺があります。小寺で、琵琶湖岸の商店街から5分ほどあるいた住宅街の中に軒を連ねています。私の中ではビッグネームだったのですが、初めて訪れたときは「ここか?」と疑ってしまいました。

 義仲でひらめく方もいるでしょう。そうです。朝日将軍・木曽義仲の墓所です。歴史に疎いので、その先は省略しますが。左脇に側室・巴午前の巴塚があります。

Zeze2 右脇には、松尾芭蕉の墓があります。最初は芭蕉の墓を覗きに行ったようなものです。芭蕉は生前、しきりに義仲寺を来訪したそうです。そして、元禄七年(1694年)、旅の途中の大阪で逝去した際の「骸は木曽塚に送るべし」との遺言によって、淀川を船で遡って、現 在地で永眠することになったそうです。

 寺内は歩き回るほどの広さでもありませんが、句碑が20近くあります。そのうち芭蕉句碑が3つ。

   「行春を あふみの人と おしみける  芭蕉桃青」
   「古池や 蛙飛こむ 水の音       芭蕉翁」
   「旅に病んで 夢は枯野をかけ巡る   芭蕉翁」

 傍らの縁台に腰掛けて、しばし風流な思いに浸るのも良いものです。日ごろ、風流には縁遠 い生活をしていますので、せめて一時でも。

Zeze3  石山寺、園城寺には1・2回しか出かけたことが無いのに、義仲寺は5・6回訪れています 。何が良いんだか自分でも良く判りませんが。前掲の烏丸半島の蓮の花のあと、ここまで来たのだから膳所まで足を延ばそうと。まだ1ヶ月前程のこと。何回も訪れるからでしょうか、句碑の影から小動物がでてきて歓迎してくれました。いたちでしょうか?

 関東方面からはなかなか足が向かないかも知れません。が、もし近所にいく機会でもあればだまされたと思って寄って下さい。何があっても私は責任を取りませんが。

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2006年9月 5日 (火)

続々々・大地の芸術祭のこと

Tumari8 「刀禰尚子+飯島敦義:田園の枯山水」は、今回観た作品のうちで最も心やすらぐものでした。たわわに実った水田の真ん中に、ガラスに畳み模様を付けた4畳半の空間を出現させました。ガラスを透かして足下に稲穂が見えるし、もちろん周囲も稲穂の波で、豊葦原の瑞穂の国、などの言葉が思い出されます。稲の匂いも薫ってつかの間の休憩です。越後妻有は日本の穀倉地帯であることを改めて印象付けてくれます。水もうまいので当然うまい日本酒も。

Tumari9  「カアリナ・カイコネン:明日に架ける橋のように」は、此岸と彼岸に張り渡されたワイヤーロープに、この地域の住人の要らなくなった衣服をつるした物。手前のほうにくすんだ色合いの、やがて明るい色合いに替わり、遠ざかるにつれ無彩色の衣服に変化していきます。意図は明白で、作品も川をまたぐ150mほどもある壮大なものです。しかし、「大地の芸術際」において衣服は重要なアイタムになっています。よって、此の場所ではこうなるであろうと、意外性に乏しいと感じました。

Tumari7_1  「前田光彦:光の巣」は、数本の木の5m高あたりにテーブルをつくり、そこから数m高いところに鳥の巣を逆さにしたようなドームを作っています。ドームは竹を密集させて作られています。うすくらい内部から竹を通して周囲の緑や空が万華鏡のように見えます。腰ベルトに転落防止のロープを繋いで、一人づつ登っては覗く、参加型の作品です。

 この作品の前で、群馬のSさんに偶然お会いしました。Sさんとは、利賀フェスティバルの宿泊先を同じにし、夜中までお酒を飲みながらお話をする関係です。私が利賀行をサボってたりしていて、2000年を最後にお会いする機会が無かったのですが、こんな場所でお会いするとは。来年、利賀での再開を約束してあっさりと次の行動に移りました。

 まだまだ話は尽きませんが、このあたりで「大地の芸術祭」については終息いたします。何か質問でもありましたらコメント願います。

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2006年9月 3日 (日)

続々・大地の芸術祭のこと

Tumari7  「霧島健二:「記憶-記録」足滝の人びと」は、過疎化の進むこの集落で生活している約40人の人がたを、鉄板切抜きで製作した作品で、信濃川の土手に並べられています。40人といえば、10~20家族に相当すると思います。昔、どのくらいの人たちが住んでいたか知る由もありませんが、その数だけで過疎化の進行を感じられます。

 新聞やTVで伝えられる過疎化を、文字や言葉で理解しています。しかし、私の場合、それを実感するのは「大地の芸術祭」や前掲の「利賀フェスティバル」です。初めは楽しみで出かけたのですが、回を重ねるに従って都会と地方、集中と過疎、あるいは開発という名目の環境破壊、などの課題を、遅ればせながら実感できるようになりました。この後、何らかの行動につながれば良いと思いますが、そう簡単でないことも充分承知しています。

Tumari6 「原すがね:弾/彼岸の家」は、ポリティカルな思想を前面に出した作品ですが、声高に思想を表出しているわけではありません。瞬間的に思い出したのは「戦争は命かけても阻むべし 妻母おみな牢に満つるとも 石井百代」でした。
 作品は、足滝集落の元集会場の一階を使っています。交差する紐は、古着を赤く染め、引き裂いて紐状になったもの。天井から交差する紐の先端には釘の束が結ばれています。床の間には祝出征の幟が。足滝集落の女性たちとの共同作業だそうで、女性=母性ならではの願いが込められた作品になっていると感じました。

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2006年9月 2日 (土)

続・大地の芸術祭のこと

 作品は広範囲に散在していると紹介しました。しかし、作品が集中しているエリアも何箇所かあります。たとえば、十日町市中心部、旧川西町のナカゴグリーンパーク。最も集中しているのは「ほくほく線・まつだい駅」周辺。

 「まつだい駅」周辺は大きく二つに分かれます。駅前から旧街道沿いに広がる商店街と駅裏から背後の城山(じょうやま)一帯です。今回は時間の関係で、駅に近接する数箇所しか観られませんでした。

Tumari3 「イリア&エミリヤ・カバコフ:棚田」は、第一回(2000年)の作品ですが、「大地の芸術祭」を代表する作品の一つと思います。前掲の「雑誌・美術手帳2006年7月号増刊」に棚田の所有者の紹介があるので、引用しておきます。

 『「ほんとうは体力の限界なんだけど、芸術祭があるから棚田を今年もやることにしたよ」と語るのはカバコフ作品のある棚田の持ち主、福島友喜さん。平地にして機械で作業できれば楽だという。「作品は作業にはじゃまだけど、かわいいもんだよ。親父に叱られながら、中学生のときから牛を引いて代掻きをしたり、この作品と同じ作業をしてきたから懐かしい。太陽の恵みは大したもんだよ。青葉や芽の吹く季節は、人間の誕生と同じ気持ちになる。稲も私らも生き物だもの。今年も大勢のお客さんが来てくれたらうれしいね。都会でいろいろな生活をしている人と話ができるから気持ちは青年なんですよ」。』

 棚田の所有者は、文書に添えられた写真から70半ばあるいはそれ以上の年齢と推測します。美しい棚田がなければ、カバコフ夫妻の作品の存在価値も薄れます。カバコフ夫妻を作品の生みの親とすれば、棚田の所有者は育ての親と言えるでしょう。この作品がいつまでも健在であることを願うばかりです。私は願うだけで、何もできそうにないのが悲しいですが。

Tumari4  「草間弥生:花咲ける妻有」は第二回(2003年)の作品ですが、これも「大地の芸術祭」を代表する作品の一つ思います。この作品からは力強さを感じます。この作品はどこにあっても存在感があると思いますが、冬の豪雪のなかでも咲き続ける姿が一番似合うように思います。この作品は、未来に向かって輝き続ける越後妻有のシンボルだと思います。夏と違って冬に出かけるのは支度が大変ですけど、雪の中で咲き続ける姿を、一度は観てみたいと思っています。
 ちなみに我が家では、この作品を、愛情込めて「毒花」と呼んでいます。

 城山には常設展示されている作品が多く、会期を過ぎても観られます。もしお近くにいく用などがあれば、少し時間を割いて散歩などいかがですか。

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