2018年11月24日 (土)

富士の山ビエンナーレ

 先日、「静岡県富士山世界遺産センター(https://mtfuji-whc.jp/)」と「駿河の国の芸術祭 富士の山ビエンナーレ(http://fujinoyama-biennale.com/)」を合わせて一周してきました。

 センターは富士山本宮浅間大社の門前に位置し、坂茂設計による富士山をイメージした外装になっています。螺旋スロープを昇りながら富士山の概要を知る仕組みですが、あくまで概要で深みはありません。昇り切った5階の壁面一面が開放状態で、正面に富士山が望めます。一番賑わっている場所です。写真は人が減った時に撮りました。
 館内ライブラリーの蔵書を確認したくて出かけたのですが、12~13時は閉鎖だそうで、何てこった。ガラス扉から覗きましたが、まだ書棚の3~40%が埋まっているだけでした。

 観光施設が一つ増えた印象ですが、誰もが富士山に登れる訳でもありませんから、それはそれで良いかも知れません。
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 ビエンナーレは、富士・富士川・由比の各駅付近が会場になっています。ただし富士と富士川の半分しか訪れませんでしたから、案内の受け売りが半分あります。

 展示は極めて小規模でした。富士駅付近では、使われていないビル・ビルの一角などを利用した作品展示でした。屋上の竹細工は、富士山を駆け上る龍を思わせて場所にマッチしていました。でもちょっと素っ気ない感じ、何か一味加わると良いと思いました。
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 余りにも富士山が美しいので、ビエンナーレを外れて興津・由比駅間の薩た峠を歩こうかと思いましたが、後半で日没になりそうなのであきらめて、富士駅から富士川駅までの旧東海道を歩いて、途中の会場に寄ることにしました。

 7年ぶりに富士川を徒歩で渡りました。って、橋の上ですが。
 富士川を渡ると間の宿・岩淵ですが、そこの本陣が会場でした。建屋を森に見立てたか、鳥の絵を描いた用紙の反対側に解説、解説の一文字一文字を切り抜いてあります。天井に何枚も吊るしてありますが、離れてるので細部が分かりません。座敷には、餌に見立てた切り抜いた紙片を皿に載せて於いてありました。土間に置かれた箪笥の開かれた引き出しには植物の切り抜きが。

 本陣は常盤家ですが、俳優・常盤貴子さんの実家だそうです。前回歩いた時は門が閉じていたので、初めて内部を見学できました。
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 後は近くの二会場を巡って時間切れ。全体の半分を見残した感じです。
 今まで訪れたビエンナーレ・トリエンナーレ形式の芸術祭では最も小規模でした。でも芸術を足がかりにした町興しにはなるべく足を向けたい思いを抱いています。

 町興しと言えば、富士駅近くのかつての酒屋さんがお休み所になっていましたが、内装を意図していた訳でもないでしょうが、お酒の木製掛け看板の連なりが美しく、付近の工場の勤め人が帰りがけに立ち飲みしたであろうカウンターも年季が入っています。普段は閉じているようです。芸術化された日常生活に芸術は優るのでしょうか。

(2018年11月24日記録)

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2018年11月 9日 (金)

太田道灌が陣取った亀の甲山

 子供の頃、祖母や父に連れられて小机の遠縁を訪れることがあったので、小机城や亀の甲山の名前は既知でした。平らな所は田んぼでしたが、半世紀余りの間に第三京浜、東海道新幹線や新横浜駅、横浜国際総合競技場などが建設されて激変しました。
 暫く前から付近を歩きまわっていますが、今回は亀の甲山のことを。と言っても余り話題もないのですが。

Photo_5  小机城はJR横浜線小机駅の北に位置します。築城年代も定かでありませんが、歴史に一度だけ登場します。

 長尾景春は関東管領上杉氏の有力家臣、自らの処遇に不満を抱いて反乱を起こします。1476(文明8)年から1480(文明12)年にまで及んだことです。

 豊嶋氏は景春に味方して、1478(文明10)年、小机城に立て籠もります。太田道灌の軍勢が対峙、鶴見川を挟んだ亀の甲山に陣を構えます。攻防を繰り返すこと2カ月余り、堅固を誇る小机城も遂に落城します。

Photo_6  亀の甲山は横浜国際綜合競技場の北に位置します。今は鶴見川の遊水地が目の前に広がり、高速道路が左右に延び、山裾を建屋が取り囲んでいます。それだけでなく山の上は小規模な工業団地になっています。往時を思わせるものは何もありません。

Photo_7  何もない所も歩き回るのが私の街歩き、そこに何かが見つかればなお良し。想像の助けに付近の地形を描画して添えておきます。両陣の距離は直線で1.3km程、お互いに相手の動きは見えたことでしょう。川を挟む布陣は奇襲攻撃を避けるためでしょうか。  (2018年11月8日記録)

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2018年11月 6日 (火)

街角から、「ふつうの国」とは

 横須賀市内を旧浦賀道に沿って歩いて、気になる駒札を見つけました。内容は次のとおりです。

 『東京湾要塞地帯標
 「東京湾要塞地帯第壱区」と刻まれた石標は大正十三年(一九二四)に旧陸軍省によって建てられたものです。
 明治政府により首都が東京に移されると東京湾防備が一層重要となりました。明治三二年 (一八九九)要塞地帯法が公布され三浦半島は全域が要塞地帯に指定されました。軍施設を基点に第一区~三区に分け建物や設備の形状変更などを許可制にしました。
 同時に軍機保護法が公布され写生や写真撮影及び軍施設への立入り等が許可制となり、漁の禁止や制限がされました。特に砲台が集中する走水では一般道路も自由に通行が出来なくなりました。
   大津行政センター市民共働事業・大津探訪くらぶ』
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 尾根道から、横須賀港や長浦港に停泊する艦船を写真に収めていて、世が世ならば捕まってしまうだろうと思います。駒札から、そのような思いが事実であろうと推測できます。

 駒札に書かれた石標は付近に見当りませんでしたが、逸見辺りで確認できました。民家の玄関先に建っていました。探せばもっと残っているように思っています。旧浦賀道を外れないとだめでしょう。
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 旧浦賀道は追浜付近で旧武相国境と直角に交差します。旧武相国境の東端部はほぼ横須賀市と横浜市の境界に沿っています。16号線から西に丘上に上った所の石票に『横須賀軍港境(界)』と刻んであります。「界」の字は埋もれていますが。そこから大分歩いた米軍池子住宅地区北側に『海軍』と刻まれた石標が幾本か見つかります。米軍に接収される以前は「旧日本海軍の航空廠補給部池子工場(逗子市域)と工廠造兵部谷戸田注填場(横浜市域)」でしたからその名残でしょう。
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  街歩きのフォローのために時々、近所の図書館に出向いて明治期の地図を確認します。そこに捺印されている「軍事機密」のスタンプ。
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  アジア太平洋戦争の敗戦による終結からでも70年余が過ぎています。街中の記憶は減る一方ですが、今に残るものから往時を思ってみるのも意義あることと思います。「ふつうの国」は世の動きで変化するでしょう。どのような状態を普通の国と言うか、しっかり考えておかないと。彼我で異なる訳ですから。

 最後に、軍艦が見えますがいまは長閑な長浦港。
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  (2018年11月6日記録)

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2018年11月 4日 (日)

古道について

 街歩き、今回は古道について思うところをまとめてみました。

 古道の特徴(*1)を列記します。
  1.障害があれば迂回するので局部的には迂余曲折
  2.局部的に迂余曲折するが大観するとほぼ一直線
  3.道の傍の清水や苗所の古井戸は旅人の憩いの場
  4.路傍・岐路に道標を兼ねる道祖神・庚申塔など
  5.薬研堀とかいわれる踏まれて深く切り込んだ路

 池・川・田畑などは迂回しますが、遠くの山などを目標にほぼ一直線に進みます。例えば武相国境を金沢方面に向かい、横浜市域に入って野境道路(瀬谷区)を過ぎると、やがて家並の切れ目で円海山(磯子区)が視界に入ります。円海山を過ぎて鎌倉に向かうたたら道をなお進むと、やがて東京湾に浮かぶ野島(金沢区)が見えてきます。昔の旅人は、一つ先一つ先の目標を見定めて歩を進めたことでしょう。

 生活様式の変化で埋め戻された井戸は多いと思いますが、今に残る名の付いた井戸もあります。例えば旧東海道保土ヶ谷宿中程から金沢に向かう金沢道沿に(北条)政子の井(保土ヶ谷区)、鰻井戸(港南区)が見つかります。鎌倉十井のいくつかは街道沿いにありますが、門前にある井戸さえ、結局は旅人の喉を潤したことでしょう。

 切通と思えない場所でのU字型地形は薬研堀で、往古より行き交う旅人の歩みが少しづつ大地を削った証です。意外な場所で見かける道祖神は、その辺りが旅人の行き交った道筋であったことを物語ります。

 家並の中に古い時代の痕跡を見つけることが少なくありません。実証の難しいものもありますが、正史に記録されない世俗の歴史を垣間見るのは、街歩きの醍醐味の一つと感じます。

  *1 武州久良岐郡地名考 武内廣吉著、まほろば書房 を参考にして要約

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2018年10月 1日 (月)

横浜鶴見の花月園

 京浜急行線に花月園前駅があります。横浜市鶴見区にある各駅電車のみが停車する小駅です。いま駅頭に降り立っても花月園らしきものさえ見当たりません。

 かつて駅の山側に花月園遊園地がありました。開園は1914(大正3)年で閉園が1946(昭和21)年です。その後花月園競輪場に転じましたが、2010(平成22)年に廃止となりました。いまは一旦更地にして基礎整備中と思います。いずれマンション建設が始まるでしょう。
 
 ここまでは前置き。
 先日、京急日ノ出町近くにある古書店で「鶴見花月園秘話」を購入しました。数カ月前に見つけましたが、積読が多々あるので購入しなかったものです。売れずに残っていたのは私に購入しろと言うことかと。
 
 花月園遊園地の頃の様子に興味を持っています。各種遊具は当然として、文化事業も多々実践されていたようです。主なものを列記しましょう。
  ・1914年(大正3)市川猿之助主演の野外劇。
  ・1916年(大正5)から児童絵画展を開催。全国展、国際児童画展も展開。
  ・1922年(大正11)花月園少女歌劇が開演し「東の宝塚」と称される。
  ・園内の弁天堂ほかに、伝運慶作の弁財天、高村光雲作の釈迦像、下村清時(日本画家・観山の兄)作の聖観世音像を安置。
  ・弁天池の回廊に飾られた絵馬:岸田劉生、竹内栖鳳、鏑水漬方、巌谷小波、前田青邨、恩地孝四郎など。
  ・1915年(大正4)7月、東京フィルハーモニー会による野外演奏会(指揮者はドイツ留学から帰国したばかりの山田耕筰)。
  ・1917年(大正6)、花月園で石井莫(近代舞踊の父)による野外舞踏会

 版画家・恩地孝四郎は一時、少女歌劇に関係していたらしいです。
 下村清時(日本画家・観山の兄)作の聖観世音像は、いまは本牧・八聖殿に安置されていて拝観できます。

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2018年8月27日 (月)

横浜久保山の土佐藩官修墓地

 横浜市営久保山墓地の一画にある土佐藩官修墓地が見つかりましたので、ご紹介しておきます。先にご紹介した長州藩官修墓地と性格は同じですが、1m×2mほどの敷地に7名の墓碑が重なるように建立されています。一番手前の墓碑側面に『被銃創六月七日死於横濱大病院』と刻まれています。

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 案内は次のとおり記載されています。

『官修墓地

慶応3年(1867)に行われた大政奉還によって起こった討幕派と旧幕府軍の戦い、戊辰戦争(慶応4年1月3日の鳥羽・伏見の戦いから明治2年 (1869)5月18日の五稜郭の戦いまで)は、数多くの負傷者を出しました。当時の日本医学は銃創を治療する技術が未熟であったため、官軍藩士の負傷者を治療するため、野毛町林光寺下の修文館に慶応4年4月17日、横浜軍陣病院を開設し、イギリス公使館の医官ウイルスが治療にあたりました。鳥羽・伏見、箱根、奥州棚倉、白河、会津若松、今市など各地の戦いで負傷し、軍陣病院に入院した藩士たちのうち56名が他界しました。長州藩と土佐藩では、14名の藩士たちを西戸部の大聖院に葬りました。
 明治7年7月、久保山に共葬墓地が設けられ、大聖院の墓地が改葬された折、この地に移葬されました。官修墓地と呼ばれ、6区に長州藩士、19区に土佐藩士が葬られ、18区には西南戦争(1877)で戦士した兵士や巡査が葬られています。
 横浜軍陣行院は、6ヶ月余で閉鎖され東京府大病院(後の東京大学付属病院)として拡大され、日本の近代医学の先導的役目を果たしました。

横浜市教育委員会文化財課
社団法人 横浜国際観光協会
平成6年3月』

 先にご紹介した長州藩官修墓地と性格は同じですが、ちょっと窮屈な場所という印象が強いです。
 もう一つの官修墓地、西南の役の人たちの墓碑が見つかりません。また探してみます。歴史ですから。

   (2018年8月27日記録)

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2018年8月25日 (土)

横浜の史跡と名勝『40.久保山官修墓地』

 横浜市営久保山墓地の一角に長州藩官修墓地があります。どのような性格の墓地かは案内の碑文で知れます。

『長州藩官修墓地
 慶応三年(一八六七年)におこなわれた大政奉還によって起った戊辰戦争(一八六八年)は日本を混乱の渦に巻き込んだ。
 この戦いにより数多くの戦士が傷つき斃れたが、当時の日本医学は銃創を治療する技術が貧弱で、官軍の負傷者は横浜に送られイギリス人医師ウィリアム・ウィリスが野毛(後に大田陣屋内に移転)に解説された横浜軍陣病院(後の東京大学付属病院)で治療した。
 しかし、不幸にも亡くなった者は明治七年七月に久保山共葬墓地が定められた時ここに移送された。
 この墓は長州藩士のもので墓碑を見れば奥州白河、棚倉、若松などの戦いで負傷したことがわかる。
 この官修墓地以前神奈川県が管理していたが、ほとんど無縁のままの状態で荒廃していたため、この度旅西区観光協会並びに山口県においてその整備が行われた。
                            昭和五十六年三月
                            西区観光協会
                            山口県』

 戦士の墓碑は7基ありますが、背面の経歴で「鳥羽之役」「小田原之役」で負傷した者もいると知れます。
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 久保山墓地には、他に土佐藩と西南之役の官修墓地はがあるようです。異境の地で永眠する人のいることを多くの人に知って頂きたいと思います。最寄駅は相鉄線西横浜駅、ほぼ南に向かって久保山墓地に入り、島茶屋の前を道なりに上ると案内があります。途中で保土ヶ谷道を横切ります。

   (2018年8月24日記録)

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2018年8月 4日 (土)

横浜の史跡と名勝『84.小机泉谷寺と廣重の筆』

 『84_4東紳奈川駅から横浜線に乗り替へて、菊名の次が小机駅、今はこの町も横浜市の一町に編入された。駅から右手へ城山の切通しを過ぎて五六町行けば、老松古杉の自らなす閑寂を風光のうちに、松亀山泉谷寺がある。この寺は浄土宗であって、関東十八檀林の総頭江戸三縁山増上寺の法類といわれ、昔はなかなかの貫録を示したものであった。

84a_2  この泉谷寺の本堂に、一立斎廣重描くところの大作があった。八枚の杉戸に桜の古木が横走し、しかも同じく苔むした枝からは、爛慢たる花の開いて居るさまが描かれて居る。数々あろうなれども、かような廣重の大作は、恐らく天下一品であろうと思はれる。

 この絵は郷土の史賞を探索する人々の間には、かなり古くから知れ渡って居るものであった。しかしいわゆる機感が熟せなかったか、ついに今まで多くの鑑賞家に、知られずに来たものである。近来不図したきっかけからこの大作も、天下に紹介せられるようになり、横浜としての誇りを、世に公にすることのできるようになったのは何としても愉快である。

 同じ小机町に村岡を姓とやる紺屋がある。この家は旧家であるが、ここにも未だ世に知られぬ廣重の筆がある。袋戸棚の四枚に、淡彩を施した四季の絵で、桜、杉山、菊に胡蝶、寒牡丹が風韻高く書かれ、これに亀山と号する人の手になる詩歌俳諧などが讃として添へられてあった.村岡家代々の伝うるところでは、この亀山と称する人こそ、泉谷寺の住持であり、しかも廣重とは兄弟の間柄であつたといふ松亀山の山姥から探って雅号としたものか、俚伝では後にこの僧、京の黒谷に移席したという話である。

 廣重は安政五年、齢六十二を以て没した。さすれば寺に来って長く遊び、天保の剃髪から太く俗人との交りを忌んだといふ話と照応して、見えざる歌川の筆道史に、一の逸話を残すものであらう。』

   出典:横浜郷土史研究会「横浜の史跡と名勝」 1928(昭和3)年


 泉谷寺は小机領子年観音霊場第一番。写真では茅葺の本堂と見受けられますが、すでに建て替えられています。広重の絵は非公開です。長い参道があって、いまでもなかなかの風格を漂わせています。

   (2018年8月4日記録)

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横浜の史跡と名勝『83.小机城趾』

 『東紳奈川駅から汽車で十五分程、横浜線小机駅に下車して右手を見れば、田んぼの中に孤立した老松の生い茂った小高い丘が見える。これが名高い小机城址である。

 文明十(1478)年二月、守るは成田某、攻めるは太田資持入道道灌、数次の激戦があったが名に負う要害の地、道灌が小勢では如何ともする事はできなかった。人馬は疲れる士気は萎縮する。ここにおいて道灌は「小机は先づ手習いの初めにていろはにほへとちりぢりになる」。一首をものし軍兵に歌はせて攻めかかりさすがの小机城も落城してしまった。七重八重と山吹を貫ってしょげた道灌も軍にかけてはかく当意即妙であったと今でも里人は言って居る。

 その後この城に北條の重臣笠原越前守及能登守父子が小田原没落の時迄居たが、その後は荒るる任せ今では老松古木が昔を物語るのみで虫の音が殊更に寂しい。』

    出典;横浜郷土史研究会「横浜の史跡と名勝」 1928(昭和3)年

 

 横浜郷土史研究会「横浜の史跡と名勝」は1928(昭和3)年、90年前に発行されています。その頃の横浜市域は北が鶴見・南綱島、そこから西に向かって小机・永田、南は杉田あたりまでです。その範囲の名所が取り上げられています。

 既に著作権保護期間を過ぎていますので、街歩きに合わせて時々、名所を紹介していきます。多少でも参考になれば。

 現代表記に変えていますが心もとありません。

 写真は南側からの撮影と思いますが、山裾に沿って農家が点在していました。手前は田んぼでした。子供の頃(60年前)の記憶です。横浜線は単線でした。

   (2018年8月4日記録)

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2017年8月 8日 (火)

路上観察:逗子市は面白い?

 この季節、逗子市と言えば海に注目が集まりますが、ここでは池子遺跡資料館が面白かった話です。

 資料館の話の前に、池子と言えば、神奈川県逗子市(大半)と横浜市金沢区(一部)にまたがる在日米軍施設の池子住宅地区及び海軍補助施設としての認識が強いです。

 その前は、1938(昭和13)年に設置された大日本帝国海軍の施設でした。いまでも山側を歩くと、往時の痕跡が残っています。
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 資料館は3階建てで、展示室は3階の一角の90平方メートル弱です。池子の発掘品だけですし、陳列ケースに最密充填したような展示ですから、じっくり見学するとそれなりに時間はかかります。
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 資料館は常時公開されているのですが、行った時は私一人だけ、小一時間見学していたのですが、その間に誰もきませんでした。どうも、見学者はあまり来ない様子を感じました。

 資料館の展示品は、縄文期から近代にまで及びますが、近代の発掘品のキャプションが、何とも生々しいです。軍隊が押し寄せる時は、こんなものなのでしょう。決して池子だけではないと思います。
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 ところで、なぜここに資料館ができたのか。米軍施設建設に際して埋蔵文化財が影響することが予想されたので、神奈川県埋蔵文化センターと財団法人かながわ考古学財団が、調査と同時に発掘品保存のために造られたそうです。

 中世遺跡として、鎌倉周辺に見られるやぐらと呼ばれる石窟遺跡が、山裾に多くあったそうです。写真展示がありましたけれど、現物は米軍施設内ですから何とも。
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 ちょっと話は飛びますが、春先に公開されていた名越切通しのまんだら堂やぐら群はここから近いです。
 いずれもA3三つ折りのパンフレットを頂きましたが、基礎的な知識はこれで得られます。逗子市教育委員会の発行で、あり難く思います。
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 鎌倉と鎌倉の外港である六浦を結ぶ街道の一つが、鎌倉・名越切通し・池子・六浦と繋がる浦賀道沿い。もっと内陸部を通るのが、鎌倉・朝比奈切通し・六浦と繋がる金沢道。このように考えて時代の矛盾がないかは、これから少しづつ調べます。

 池子を過ぎて、坂東三十三観音の第二番札所海雲山岩殿寺に行ったのですが、その話は次の機会に。 

  (2017年8月7日記録)

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