2021年7月28日 (水)

大鎌倉を辿る:太寧寺のへそ藥師


 横浜市金沢区片吹の太寧寺は海藏山と号し、臨済宗建長寺派に属します。本堂脇に伝源範頼の墓があります。本尊は五尺許の藥師如来立像、俗にへそ藥師と云われる由来は。


 「昔、この村の貧しい少女が、「へそ」を作り売った代金で父母の命日の供養を勤めようと思いました。しかし「へそ」を買ってくれる人はいません。ところがある日、童子がやって来て「へそ」を買ってくれたので、無事に供養を済ませることが出来ました。しかし不思議なこともあると思っていましたが、ある日この藥師の前に多くの「へそ」があるのを見つけて、如來の化身が買ってくれたことを知ります。以來、人々はこの藥師をへそ藥師と呼びます」。


 「へそ(写真左)」とは糸を巻いて玉状または環状にしたもの、布を織るのに使う中間材料で「苧環(おだまき)」「おみ」とも云われます。素材により制作過程(写真右)は変わるかも知れませんが、大変な作業であることは想像出来ます。そういうことを知ると、昔の文書の意味がより分かってきます。

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 太寧寺については、こちらを参照願います。


引用文献
  1.「布 うつくしき日本の手仕事」 横浜歴史博物館企画展展示 

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2021年5月14日 (金)

浦賀道を辿る(京急久里浜駅~京急県立大学駅)

 久しぶりに浦賀道を通して歩いてみようかと。
 昔は行き先が道の名前だったようですから、浦賀から北上する場合は、例えば鎌倉道に合流する六浦(横浜市金沢区)の地名を採って六浦道とするべきでしょう。でも街歩きの代表格の鎌倉道も、どちら向きに歩いても鎌倉道ですから、ここは分かりやすさで浦賀道にします。
 今は道に名前が付いていますから、国道16号線に沿って歩くことになります。

 

 京急久里浜駅からペリー公園に向かいます。1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリー提督率いる4隻の黒船が来航、上陸したところです。前は小さな入江、左手の千代ケ崎の向こうが浦賀湾口です。
 千代ケ崎は江戸湾防衛の台場で、後に千代ケ崎砲台になって東京湾に睨みを利かせます。砲台跡は閉鎖されていると聞きますが、たまに開催される横須賀市説明会の抽選には当たりません。
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 浦賀湾南岸の先端が燈明崎、復元された燈明台があります。1860(安政7)年1月19日、幕府初の遣米使節の随伴船咸臨丸が、燈明台を右舷に見て太平洋に進みます。
 浦賀湾奥方向、正面の小山手前が黒船の伝停泊地、一番奥に旧浦賀ドックが見えます。反対側は房総半島が目の前です。
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 浦賀奉行所跡に向かう途中、(源)為朝神社は悪疫退散。町内会館軒下の鏝絵、浦賀には多くの鏝絵が残りますので古い民家や神社などで探して下さい。鏝絵は伊豆の長八が有名ですが、横須賀にも石川善吉一派の仕事が残ります。
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 浦賀奉行所跡は更地になって、案内が設置されています。以前は社宅として利用されたアパートが何棟かありました。
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 西叶神社、東叶神社に参拝。東叶神社門前の日西墨比貿易港之碑は初見です。神社間は浦賀の渡しで。
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 確認ポイントは終えて、要約歩き出した思いです。京浜大津駅手前の「東京湾要塞地帯標」の案内、ところが案内標は未だ見つかりません。残っていないかも知れません。
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 大津駅近くの信楽寺(しんぎょうじ)に「坂本龍馬の妻・お竜さん」の墓があります。龍馬とは若くして死別、後に再婚して西村ツルとして近所で暮らしていました。大津町の町おこしは「お竜さん」
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 この後は県立大学駅で打ち切り、本日は25000歩弱。この先は山越え、上ったり下ったりを3回ほど繰り返すので。
 歩きに徹すれば、浦賀奉行所から六浦までは一日行程で良いと思います。(2021年5月12日実施)

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2021年4月 7日 (水)

旗立山(藤沢市村岡)

 大船・湘南江ノ島を結ぶ湘南モノレールの湘南深沢駅辺りから西に、JR東日本旧大船工場跡が広がります。その西外れに旗立山が聳えています。かねてより頂上に上ろうと思っていました。名前は山ですが、さして高くない丘ですから造作ないでしょう。

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 先日、宮前御霊神社に寄ったとき、女坂の途中に碑が建立されていることに気付きました。近づくと「旗立山の由来」と刻まれていました。

『旗立山の由来
 この碑の左上山頂に平坦地(平台山)が一二〇〇坪ほどあります。
 前九年の役(一〇五六)の出陣にあたり、源頼良がこの山に白幡を立て軍勢を集めたことからこの地は旗立山とよばれています。
 また、その子源義家も後三年の役(一〇八六)の時に同じように白幡を立てたとされています。(其のとき村岡城主鎌倉権五郎景正が初陣としてこの戦いに参戦しました。)
 この旗立山には葛原親王(桓武天皇第五皇子)が祀られていた塚があったとも伝えられています。
   平成二十一年三月吉日  以下、寄贈者名』

 この場所は現藤沢市ですが、かつては旧鎌倉郡です。鎌倉道上道を進むと、ここで鎌倉を出ることになります。近くに「陣出」の地名がありますが、旗立山と直に関係するかはまだ調べがついていません。

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 この付近に東海道本線新駅の計画があると聞きます。旗立山と右手の建物の間、実際の位置関係は南西と北東ですが、その間を東海道本線が通過しています。大船・藤沢間5㎞弱の間の新駅ですから、どうなるでしょう。

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  記録日:2021年4月7日

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御霊神社(藤沢市宮前)

 この世に恨みを残して死んだ者が怨霊となって天災や悪疫を起こすと考え、この死者を神として祀り鎮魂して災難を逃れ、平和と繁栄を願うのが御靈信仰です。

 宮前御霊神社は下り東海道本線が藤沢駅に到着する直前に左手に見える独立した丘の南面中腹に鎮座しますが、恐らく北から続く丘陵の先端部分でしょう。東海道本線が分断したと思えます。

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 北側の丘陵に村岡五郎良文こと平良文の居城・村岡城址があります。今は児童公園で碑が残るのみです。城址北東の二伝寺に、良文-忠光-忠通と伝わる三代の塚があります。忠通は三浦党・鎌倉党の祖とされ、曾孫に鎌倉五郎景政が連なります。

 宮前御霊神社は940(天慶3)年に村岡五郎良文が勧請して戦勝祈願したのが始まりで、旧村岡城の至近にあることからか神奈川県内の13社に分霊したとされます。神奈川県下の御霊神社は、旧鎌倉郡10社など合計20社に及ぶそうで、名称は御霊神社・御霊社・五霊神社・五郎神社など様々です。

 祭神は早良親王・鎌倉権五郎景政・葛原親王・高見王・高望王、権五郎が連なるのはその武勇によるものでしょうか。境内社は十二天王・疱瘡神・矢竹稲荷大明神・七面宮。

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 鎌倉道上道が北側斜面を数100mほどですが通過しています。古道の木立の切れ目から東海道本線、その先に湘南ヘルスイノベーションパークが見えますが、この一帯に村岡新駅を建設する計画があるようです。

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 南西1㎞強に川名御霊神社が鎮座するのは、やはり旧村岡城に近いからでしょうか。社名碑の揮毫者は海軍中将・東郷吉太郎。近くのJR東日本旧大船工場引き込み線跡の前身は横須賀海軍工廠深沢分工場で軍人の住宅もあったと云うことで、その関係でしょう。路上観察の種は尽きることがありません。

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  記録日:2021年4月7日

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2021年3月 9日 (火)

中国映画「春江水暖」@シネマ・ジャック&ベティ 3月3・5日

 中国の大河・長江(下流部は揚子江)の南側が江南、杜牧の四權絶句「江南春」から、風光明媚にして深い歴史を秘めた土地と知れます。

 

 江南を貫く富春江は、河・江には及びませんが長さ500kmほどで大河と云えます。沿岸に大都会・杭州市が位置し、映画の舞台となる富陽区は地下鉄で30分ほど離れています。都市化の波で高騰する住宅事情が庶民を苦しめます。

 

 富陽に住む四人兄弟を中心とする三代の大家族。老母は古希の祝いの席で脳卒中に倒れ、後の生活に困難が生じます。長男は料理店を経営し、次男は漁師を生業とし、三男はダウン症の息子を育てながら無職で借金まみれ、四男は母の愛を一身に受けつつ取り壊し現場で働きます。

 長男の娘・グーシーは、親の思惑とは裏腹に安月給の教師・ジャンとの結婚を望んでいます。次男は息子に、居住マンションの立退料で新居を買うつもりです。

 

 恐らく誰もが想像できる家庭的・社会的問題が起こります。多くの人にとっても身近な問題です。社会で考えなけらばならない大きな課題かも知れません。

 

 映画の魅力は登場する俳優、と言うより監督の親族・知人をキャスティングした素人たちです。不自然さは感じられません。監督・脚本のグー・シャオガンは、美しい四季の景色の中、4年をかけて一つ一つの出来事を丁寧に描きます。

 

 長回しで川面を水平移動するカメラ・ワークが深く心に残ります。

例えば、グーシーが川沿いの道を歩き、ジャンは泳いで水から上がり、二人でフェリーを操船するジャンの父親に会いに行く数分が1カット。例えば、供養で川に魚を放つ長男夫婦、パンして丘の中腹を進む釣り人を追い、先端に来ると大きな川に出て大きな船を追う数分が1カット。

 

 春、母の墓参り。グーシーが倒れた後の祖母に手渡したノートを四男が読み上げます。母が富陽に嫁いだころの記憶が鮮やかに書き留められています。

グーシーは母に寄り添い、ジャンは義父の「昔はもっと苦労があって結ばれた」話を聞きながら山を下ります。

 

 経済至上主義で庶民に降りかかる問題は国を問わず、異なるのは国の体制や為政者の主義主張と感じさせられます。これが中国で制作されたとは。

 

 「春江水暖」とは、蘇軾の七言絶句「恵崇春江暁景二首 其一」の第二句「春江水暖鴨先知」から取られています。いずれ続編ができるようで待ち遠しい。 

   (2021年3月9日記録)   

公式サイト

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2020年12月20日 (日)

金沢道を辿る:金沢の古い地形4

 往時、鎌倉から釜利谷に向かって武相尾根を超えると長い谷戸の最奥、進むに従い谷戸は開け、やがて内海の北端になります。

 江戸時代になって世の中が落ち着くと物見遊山に出かける人も増えます。江戸を起点にすると、鎌倉・江の島巡りは三泊四日の旅程だったようです。金沢経由で鎌倉に向かうと、金沢近くになって能見堂を通過します。現在は削平された跡が残ります。

 幕末の浮世絵師・歌川広重は金沢の金沢八景を描いていますが、この八つの景勝地は能見堂から見えたものです。金沢八景は改めて案内しますが、その一つ「小泉夜雨」が、長い谷戸を抜けて初めに見る内海の辺になります。
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 この周辺の様子を、横浜市歴史博物館の中世金沢(往時は六浦)のジオラマで示します。
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 金沢文庫駅近くの正法院の裏、赤井不動まで上ると目の前に「小泉夜雨」の光景が広がります。もちろん海などありませんし、事前の知識がなければ気付くこともないでしょう。足元のバス通りまで海が入り込んでいました。正面の丘の右側に現手子神社が、左側が「小泉夜雨」の地です。
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  (2020年12月20日記録)

#大鎌倉 #金沢 #六浦

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2020年12月18日 (金)

金沢道を辿る:金沢の古い地形3

 白山道(しらやまみち)は、鎌倉・金沢間を結ぶ最初の古道、武相尾根越えになります。呼称は、かつて釜利谷奥にあった白山寺(はくさんじ、白山堂とも)へ行く道の意味です。最初は鎌倉・釜利谷間、後に称名寺付近間まで延びます。現在、鎌倉・釜利谷間は古道を失ないましたが、釜利谷・称名寺付近間は概ね古道跡を辿れます。

 往時、鎌倉から釜利谷に向かって武相尾根を超えると長い谷戸の最奥、進むに従い谷戸は開け、やがて内海の北端になります。
 現在、谷戸は宅地化していますが、狭い道筋は地形に沿い、うねるように延びて古道の俤が感じられます。横浜市歴史博物館の中世金沢(往時は六浦)のジオラマと現在の写真で雰囲気が伝わるでしょうか。

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 往時、内海が見えだす辺りは、少し時代が下ると金沢八景・小泉夜雨の景勝を称賛された場所です。

 やがて内海の浜辺は海に突き出た白井崎に遮られます。
 現在、京浜急行金沢文庫駅の西側に平行して見える小高い丘が白井崎です。各所を削られて細っていますが。駅前ロータリから建物の間に先端部が、駅のプラットホームから左右に延びる小高い地形が、谷津浅間社の参道途中から丘陵部から延びる岬跡が確認できます。

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 往時、谷津の富士坂切通を抜けると、称名寺の裏山・金沢山から続く君が崎が横たわります。先端を回り込んで称名寺付近に向かいます。
 現在、君が崎の先端は、金沢文庫駅の南東数100m、君が崎交差点脇の小高い丘で確認できます。北側のバス通りを駅から称名寺まで歩くと、削平されていますが起伏で、かつての岬がそれとなく感じられます。

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 地形は大きく変化しましたが、古の俤を見つけ出すのも路上観察の楽しみです。


  (2020年12月18日記録)

#大鎌倉 #金沢 #六浦

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2020年12月10日 (木)

金沢道を辿る:金沢の古い地形2

 古道の話に入る前に、もう少し金沢の古い地形を考察します。

 横浜市歴史博物館に中世金沢(往時は六浦)のジオラマがあります。じっくり眺めると地図とは別の気づきがあります。

 前掲の地図にほぼ相当する部分を掲載します。

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  (2020年12月10日記録)

#大鎌倉 #金沢 #六浦

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2020年12月 6日 (日)

金沢道を辿る:金沢の古い地形

 これから暫くの間、鎌倉市・横浜市金沢区間の古道を考察します。始めるに際して次の2点を知って頂くと話が円滑に伝わると思います。

 金沢区の古称は武蔵国久良岐郡六浦荘、六浦荘には六浦本郷・釜利谷郷・金沢郷・富岡郷の4つの郷があり、本郷は地域の中心を意味します。往時は六浦荘が上位にあり、金沢郷を内包しています。ところが現在は、金沢区の六浦町・六浦東町・六浦南町であり往時とは広狭が逆転します。
 必要に応じて明記しますが、通常は現在の概念を用います。

 金沢区の地形は江戸時代に始まる新田開発、近年の沿岸部埋立で大きく変化します。
 しかし古道を変化させる要因は、朝比奈切通開削、瀬戸橋架橋です。朝比奈切通開削は、武相境の尾根を越える難儀を解消して鎌倉・六浦本郷をより密接に結びます。瀬戸橋架橋は、高々数10m幅とは云え通行を阻む潮の早い瀬戸の通行を容易にして六浦経由で鎌倉・金沢郷をより密接に結びます。より早く、より容易に通行できる道筋への変化と捉えられます。
 海が陸に奥深く入り込んだ近世初頭の地形に、後の変化の様子を重ねて示しておきます。

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 図出典:松田磐余「江戸東京・横浜の地形」 
     (神奈川県立金沢文庫(1993)による「金沢八景図」の主要部分を編集して簡略化)に加筆

   (2020年12月6日記録)

#大鎌倉 #金沢 #六浦

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2020年11月 2日 (月)

鎌倉道上道、下飯田から瀬谷まで

鎌倉道上道の4区間目、横浜市営地下鉄下飯田駅から相鉄線瀬谷駅までを歩きました。現在は横浜市になっていますが、旧鎌倉郡をまだ抜け出していません。

鎌倉の鶴岡八幡宮を起点にして3回で歩く予定でしたが、1回余計になりました。毎度歩き始める時間が遅いこと、予定が狂うと最寄り駅が離れてアプローチが長くなることに寄ります。
とりあえず瀬谷到着ですが、追ってもう少し北まで進もうと思っています。それと全体を何回か繰り返して寄り道ルート、興味ある場所を探そうとも思っています。

20201029_1576 上飯田の飯田神社は、主神を左馬頭源義朝とするサバ神社です。飯田神社は紛らわしいと思うのですが、何か理由があるのでしょうか。神社前に庚申塔の類がたくさん並んでいます。これほど多いのは珍しく思います。周辺の区画整理や道路工事のために移動したものもあるかも知れません。

20201029_1589 同じく上飯田の本興寺、本堂唐破風下の彫刻は見事でした。木彫と云うと、富山県南砺市井波町を思い出します。何度か街中を散策すると、店先で作業をしていました。この寺の彫刻がどこで造られたかは知りませんが。

20201029_1595 上飯田はまだ続きますが、柳明古地図を見ていたら、右下に「新田義貞公進軍の道」と記されていて、鎌倉道を歩いていることを再確認しました。鎌倉に向かうから鎌倉道なので、逆方向にあるいているので何道を歩いているんだか。

20201029_1608 この少し先の道筋は古道らしい雰囲気を醸し出しています。何処がと問われても答えにくいのですが、地形に沿って緩やかに蛇行する幅一間ほどの道としか言いようがありません。右側に川があるので、柵はしかたありません。人工的に造られた道は一直線です。

20201029_1634 瀬谷駅南口を出て大和方面に進んだ交差点の一角に「世野の原の鷹見塚」がありました。案内が無ければ残土が積みあがっていると思ったでしょう。周囲はお鷹場で、この塚は相模国四郡の総指揮所だったとのこと。幕末まで続いていたそうです。草が茂っていたので上る気も起きませんでしたが、冬枯れのころに上ってみたいです。見えるのは建物ばかりでしょうが。

  (2020年11月2日記録)

#鎌倉道 #上道

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