2023年10月12日 (木)

陣出遺跡発掘調査現地説明会メモ

1.はじめに
04_20231012181901  先にに実施された「鎌倉市 陣出遺跡発掘調査現地説明会」に参加しました。陣出は字名で、ローカルあるいは歴史愛好者ほどしか認知されていないのでしょうから、まず位置説明。

 大船駅・湘南江ノ島駅間を結ぶ湘南モノレールが大綱駅を出発して3駅目が湘南深沢駅、駅の西側に盆地状の地形が広がります。一帯は鎌倉市の北西端、少し西は藤沢市村岡です。最近は大船駅・藤沢駅間の新駅構想あるいは鎌倉市役所移転計画で話題豊富な所です。

 調査地のすぐ東側に文和五年銘のある石造宝篋印塔「泣塔」が存在します。鎌倉青年団建立「洲崎古戦場碑」も近くにあります。
   調査地 :鎌倉市寺分字上陣出393番の11ほか
   開催日時:2023年10月8日(日)
   主催  :鎌倉市まちづくり計画部深沢地域整備課
        鎌倉市教育委員会文化財部文化財課
   調査機関:株式会社イソビク金川営業所

 

2.調査概要
02_20231012181901 07_20231012181901  道路造成計画に先立つ狭い範囲の調査で、古墳時代から奈良・平安時代の竪穴住居跡4軒分と性格不明の遺構2基、土坑1基が見つかりました。

01_20231012181901  この規模にしては多くの出土品があったとのことですが、当日は限られたものが展示されていました。
 遺跡はさらに東西(市有地)に延び、南(JR用地)に広がるとされるので、再開発の進展に応じて調査は継続するかも知れません。これからも期待です。

 

3.感想など
 長い年月に渡る周辺の様子を大雑把にまとめておきます
06_20231012181901  6000年前は大船辺りまで海が入り込んで、陣出は丘陵だったかも知れませんが裾は海に接していたと考えられます。

 

05_20231012181901  海が後退すると柏尾川の氾濫原になります。拠って周囲を丘陵に囲まれた盆地状の地形が広がります。中世、新田義貞が鎌倉攻めする際、鎌倉道を南下した新田軍はこの辺りで軍勢を分散、鎌倉中心部を南北から攻撃します。

09_20231012181901  近世、旧東海道戸塚宿で分かれて江ノ島に向かう、江ノ島・鎌倉巡り道筋になりました。江戸から3泊4日の行程が標準のようですから、1泊目が横浜金沢付近、2泊目が鎌倉・江ノ島付近、3泊目が戸塚付近、あるいはその逆回りになります。
 江ノ島道の道標が山崎(写真)と青蓮寺(移設)で見られます。

 

08_20231012181901  近代になって横須賀海軍工廠設立、魚雷・機雷を製造します。その後、国鉄大船工場に転じます。国鉄(JR)の工場が閉鎖されてからは恒久的な土地利用はされていないようで、今後、工場跡地を主体にする周辺は再開発されるのでしょう。

 遺跡として特筆される要素は少ないと感じました。しかし遺跡間際まで岩盤が見られることから、周辺の地形との関係が推測できます。発掘位置が重要で、周辺は現代になってから人手が加えられて地形が大きく変化しているからです。


4.引用
 1.「陣出遺跡発掘調査現地説明会」パンフレット 鎌倉市 2023年10月8日
 2.神奈川県立生命の星・地球博物館 企画展「+2℃の世界」ワークテキスト
 3.「大船工場30年史」 日本国有鉄道大船工場 昭和51年10月31日

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2023年9月 7日 (木)

「伊勢山の離宮跡」をHPに掲載

明治時代の一時期、横浜に離宮がありました。途中で場所を変えましたが、港と競馬場に行幸するに便利な場所です。競馬と云っても往時は社交の場でしたが。

横浜の史跡の百年前と現在の様子を比較するシリーズの5件目、「伊勢山の離宮跡」をHPに掲載しましたので、お手すきの時に一読願えれば幸です。情報など頂ければ、逐次更新していきます。

   (2023年9月7日記録)

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2023年7月29日 (土)

3.2.06.州干弁天と羽衣町の厳島神社

横浜市の臍とも云える場所に横浜市役所は建ちますが、市役所ゆえに臍と云う訳ではありません。
かつて横濱村は、横浜元町辺りから西に延びる砂嘴に広がりました。砂嘴の先端には、源頼朝が奉遷したと云われる村の鎮守・洲干辨天が鎮座しました。横濱村の鎮守のあった所こそ臍ではないかと思います。
洲干辨天は明治二年、官命により遷座・改称、伊勢佐木町近くに羽衣町厳島神社として続きます。背景を次にまとめたので、よろしければご一読下さい。

3.2.06.州干弁天と羽衣町の厳島神社

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2023年7月22日 (土)

八坂神社のお札まき

ホームページに「八坂神社のお札まき」を掲載しました。
八坂神社は、JR戸塚駅から旧東海道(国道1号線)を西へ徒歩10分ほど進んだ所で、この一帯が旧戸塚宿の中心部になります。
7月14日、女装の10名ほどが風流歌を和しながら、頃を見て「正一位八坂神社御守護」の護符を宙に舞わせ、詰めかけた人々が競って拾います。
お手すきの時にでも一読願います。

  (2023年7月21日記録)

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2023年2月 5日 (日)

みなとみらいの目と鼻の先に米軍揚陸艇部隊配備が決定

先日の新聞が「みなとみらいの目と鼻の先に米軍揚陸艇部隊配備が決定(*1)」を伝えました。
目と鼻の先にあるのは瑞穂ふ頭/横浜ノース・ドックで、横浜みなとみらい地区の北に位置する島状の埋立地、瑞穂橋で陸地に接続します。一部を除いて米軍の接収が継続して今は資材の保管場所のようですが、新たに13隻280人の小型揚陸艇部隊を常時配置するとのこと。

09_20230205184001 瑞穂ふ頭は横浜港大さん先端に立つと、少し左手に見えます。東端にハマウィング(風力発電所)の巨大なブレードが回転しています。ランドマークタワー展望台からは全体を鳥瞰できます。

02_20230205183701この件に対する「山中竹春横浜市長コメント(*2)」は何とも頼りなく、接収地返還に毅然と対応する意思が感じられません。
03_20230205183701 参考とありますが市の「横浜ノース・ドックに米陸軍が小型揚陸艇部隊を新編予定(13隻及び約280名の編成)(*3)」は、どの立場からの見解か皆目分かりません。異議はあっても意義などありえない筈。

配置される280人の居住地はどこになるか。瑞穂ふ頭から最も近い米軍住宅は、2015年に居住者が退去した根岸住宅です。街歩きの途中で観察すると、撤去作業が進んでいる一帯と、内装に手を入れているのではないかと思われる一帯があるように感じられます。居住が再開されるかも知れません。

直接の関係は無いかと思いますが、市の「国民保護法に基づく緊急一時避難施設を指定(*4)」が告知されています。
すなわち横浜市域の横浜市営地下鉄管理の地下駅舎33 か所及び横浜高速鉄道株式会社管理のみなとみらい線の地下駅舎5か所が、緊急一時避難施設に指定されました。たまに利用する新高島駅は奇妙な印象を受けるのは、そういう用途が想定されているのでしょうか。

平和を希求するより、戦争に突き進む動きの方が強力と感じます。これで良いのでしょうか。

  1.https://www.tokyo-np.co.jp/article/225800
  2.https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/kichi/comment.html
  3.https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/kichi/kichitaisaku.files/0093_20230127.pdf
  4.https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/koho-kocho/press/somu/2022/0728kokuminhogo.html

  *米軍接収地 *瑞穂ふ頭 *揚陸艇 *根岸

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2023年1月22日 (日)

上瀬谷の狸

01_20230122204301 旧上瀬谷通信隊施設(横浜市瀬谷区)の南東側、武相尾根付近で狸に遭遇しました。3m程まで近づいても逃げないので観察すると、体毛は薄れ、皮膚は広い範囲が赤色で、尻の辺りは皮膚が硬化しているようで病的な様子が窺えました。暫くにらみ合いましたが逃げる様子もありません。

大きな水たまりがあって、先へ進むには狸に1m程まで近付かなければなりません。驚かしてしまうと思い、元来た道を戻って一区画を迂回して水たまりの先へ出ました。それでも狸は動いていません。外傷もない様子で、あるいは寿命の末期かとも想像しました。

03_20230122204301 横浜市環境創造局環境科学研究所発行の冊子「横浜の源流域環境 -かけがえのない環境を未来へー」を入手、見始めています。良好な環境を示す一例を引用しますが、上瀬谷は帷子川源流域になっています。食物連鎖の上位種の存在は、環境の良好さを示すと何かで読んだことがあります。調査年は2005年です。

02_20230122204301 海軍道路に狸注意の看板が掲げてあります。一帯には狸に限らず小動物が多く生息するでしょう。最近はあちらこちらに重機が入って埋蔵文化財調査や農地改良などを行っているので、小動物も住みにくいでしょう。
「かけがえのない環境を未来へ」とは相反の状況です。経済も大事だが過ぎてはいけない。何かを留めるのも政治・行政の大きな仕事、どうも銭にしか目が行ってないように思える。

#米軍接収地 #上瀬谷 #花博反対 #テーマパーク反対

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2023年1月20日 (金)

「案内書・生麦事件を辿る」、その後

Namamugi 神奈川県立図書館で生麦事件で検索したら、「四次元的路上観察案内書・生麦事件を辿る」もヒットしました。見慣れたと云うより、ヨコハマトリエンナーレ・サポーター活動として皆と一所に制作したA3両面印刷の簡素な案内書です。どなたが献本したのでしょうか。
制作してから日時が経過したので、個人的に最新情報に更新しようと観察・調査を開始した所です。

生麦事件は、旧東海道川崎宿と神奈川宿のほぼ中間の生麦村(現横浜市鶴見区生麦)の路上で発生した外国人殺傷事件、後に薩英戦争の誘因ともなる横浜市における一級の史実です。
時は文久2年8月21日九ツ半(1862年9月14日13時)過ぎ、被害者は横浜居留地から川崎大師に向かったと思われる英国人4人の一行、加害者は薩摩藩主の父の大名行列に準じた総勢400名ほどの一行です。


 

001_20230120174001少し離れた所に記念碑が設置されていますが、現場は路上であり目印になるものがありません。かつては脇の民家のフェンスに事件発生現場を告げる看板(生麦事件参考館設置)が据えてありました。

02_20230120174001このお宅が更地になり、後に3棟の建物が建てられ始たところまで確認していました。先日、その後の様子を確認に行きましたが、何らかの案内すら見当たりませんでした。私は何度も歩いているので周囲の様子から現場を特定できますが、初めての人には見当も付かないでしょう。出来れば行政が、案内を設置しないかと思っています。

#四次元的路上観察 #武相二万歩 #生麦事件

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2022年8月 7日 (日)

茅ケ崎南湖院あるいは炮術調練場

 茅ケ崎市西部の海岸近くに、かつて東洋一と云われたサナトリュム(結核療養所):南湖院がありました。現在、第一病舎(案内文面は末尾に)のみが保存されています。「南湖院平面図」を一見すると、その広大さを実感できます。

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 画家・萬鉄五郎は神経症と結核の療養のために、1919(大正8)年、茅ヶ崎に転居します。1年ほどして健康を取り戻した萬は、周辺を描いた「水着姿」「南湖院」「茅ケ崎海岸(鳥居と母船)」などを残しています。愛すべき萬の作品ですが、当時の周辺の様子を留めていることも貴重です。路上観察に往時の作品はとても参考になります。

 かつて片瀬川と相模(川)の間は,引地川の東側を砥上ヶ原、西側を八松ヶ原と呼ばれる草原でした。現在の藤沢市鵠沼海岸を中心とする辺りに比定されます。この草原は江戸時代中頃の享保13年、幕府の炮術調練場(鉄砲場)に指定され、大砲(大筒)の射撃訓練が行われます。訓練には次のような種類があったようです。
  ・町打 -遠距離射撃訓練で、辻堂村から柳島村方面に発射されたという
  ・角打 -近距離射撃訓練で命中率が問われ、鵠沼村で行われたらしい
  ・船打 -三百石積船に載せた大筒の射撃訓練で、六人が乗り組んだ
  ・下ヶ矢-高所からの射撃訓練で、駒立山(片瀬丘陵北側)から鵠沼村に発射された

   付近の開発は少しづつ進んだようですが、明治以降は炮術調練場を日本国海軍が利用します。第二次世界大戦前後の様子は第一描写案内も触れています。萬の描いた風景には、まだまだ開発前の様子が留められていると思って良いでしょう。

『国登録有形文化財(建造物)
旧南湖院第一病舎
 明治三十二(一八九九)年、医師・高田畊安によって設立された結核療養所「南湖院」。母の名を冠して竹子室と命名された第一病舎から始まり、最盛期には約五万坪の敷地の中に十四の病舎や測候所などが点在し、「東洋一のサナトリウム」と謳われました。最初の入院患者の勝海舟夫人や国木田独歩、八木重吉らが療養するなど、多くの著名人が療養や見舞いに訪れています。
 その後、昭和二十(一九四五)年、米軍の茅ヶ崎海岸上陸を想定した日本海軍の接収により、南湖院は、結核療養所としての歴史に幕を閉ざすこととなりました。翌年、米軍に接収されキャンプ・チガサキとなり、接収解除後は海水浴客のキャンプ場などとして利用されながら今日まで受け継がれてきました。
 第一病舎の建物は、採光通風に配慮されており、北面に切妻屋根の玄関、西面に階段室が設けられています。明治建築らしい下見板張塗装仕上げで、縦長の上下窓と三角ベディメント、胴蛇腹がアクセントとなり、風格ある外観を構成しています。療養地として著名な湘南に残る貴重な建物で、平成三十(二〇一八)年三月二十七日、国登録有形文化財(建造物)に登録されました。
  令和二(二〇二〇)年三月
    茅ヶ崎市教育委員会
      ちがさき丸ごとふるさと発見博物館』

1.「南湖院の歴史
2.「茅ケ崎市史2 資料編(下)・南湖院平面図」 茅ケ崎市 昭和53年10月
3.「茅ケ崎市史4 通史編」 茅ケ崎市 昭和56年3月
4.「藤沢市史5 通史編」 藤沢市編さん委員会 昭和49年10月1日
5.「鉄砲場とその周辺の農民・漁民が負った苦労」 出張千秋 わが住む里No.53
6.「没後90年 萬鐵五郎展図録」 東京新聞発行 2017
7.「南湖院(萬鐵五郎)

#武相二万歩 #大鎌倉 #茅ケ崎 #鵠沼 #片瀬 #南湖院 #萬鉄五郎

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2022年6月21日 (火)

江ノ島道石上地蔵

旧東海道を上方に向かう場合、藤沢宿江戸見付を過ぎ遊行寺橋(旧大鋸橋)を渡ると、江ノ島神社一の鳥居がありました。旧東海道は北へ、宿場の中心部に向かいますが、江ノ島道は反対の南に進みます。
現在の様子は国道一号線、箱根駅伝の難所で知られる遊行寺坂を下りきって藤沢橋に掛かる辺り、脇に江ノ島道を示す道標(移設されたものらしい)があります。

江ノ島へはここから約一里です。前半は鵠沼を、後半は片瀬を進みます。詳しいことは追々にして、鵠沼の江ノ島道から少し逸れた袋小路に、『鵠沼最古の石仏「石上地蔵」』が佇んでいます。民家の一角のようですが良く維持されています。掲示の由縁の一部を次に示します。

『この辺りは片瀬川(古くは固瀬川と書かれた)の「川袋」と呼ばれる曲流が始まるところにあたり、古くから渡船場が設けられていました。
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 鎌倉時代には石上郷と呼ばれ、源頼朝の霊を祀る鎌倉二階堂の法華堂が支配していました。渡船場は「祗上渡し」と呼ぱれていましたが、天正年間から「石上渡し」と呼ばれるようになったと『皇国地誌』にあります。
 江戸時代初期には幕府の右筆(書記)を務めた旗本大橋家の知行地(所領)となり、うち九石分は鵠沼神明の空乗寺領に寄進されました。
 その時代、一六五四(承応四)年にこの地蔵が造立されました。鵠沼の現存最古の石仏です。』

鵠沼は境川の氾濫原に位置します。明治期の地図では川筋が大きく蛇行しています。今は直流に改修されているので、特に調べない限り気付くことはないでしょう。地蔵は、かつての川筋に合わせて造立されているので、いまは突拍子もない位置になってしまいます。
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造立されたのは江戸時代になって50年も過ぎた頃、世の中は落ち着いて人々が金沢・鎌倉・江ノ島巡りや大山詣に出かけるようになった頃でしょう。  (2022年6月21日記録)

#武相二万歩 #大鎌倉 #江ノ島道 #鵠沼 #片瀬 #境川 #石上地蔵

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2022年6月 6日 (月)

逗子市やまなみルート

やまなみルートを歩きました。朝比奈切通の南側に平行する古道です。六浦の古老は、回顧話に「塩を作って藤沢辺りに売りに行くと、魚の保存のために幾らでも売れた」とありますが、この道を通ったことでしょう。なお歩行記録の途中の行止りは公園の閉鎖(曜日注意)のためです。

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地形的には、在日米海軍横須賀基地司令部の管理下にある「池子住宅地区及び海軍補助施設」、それ以前は帝国海軍の弾薬庫でした。その北側の逗子市・横浜市・鎌倉市の市境の尾根道です。
現在は住宅地区で通行できませんが、逗子市・横浜市の市境は相武国境道で、やまなみルートと直交します。
また六浦方面と鎌倉中あるいは海浜部の間は丘陵続きでした。現在は「鎌倉逗子ハイランド」造成で丘陵が切断されました。

歩くのは3回目ですが、歩いて楽しいルートではありませんし、お薦めもしません視界が開けず、今の時期はかなり草木も繁っています。
なぜ歩いたかと云えば、GPS記録の取直し、古道案内の写真の撮り直しでした。さらには昔の旅人や戦に向かう兵隊がどこを通過したかを想像するためです。

添付写真は案内板、六浦・朝比奈方面分岐、山道を抜けて金沢方面、ルート脇には現状や往時を思わせる標柱。途中で十二所果樹園展望台に寄り道(往復約300m)すれば、東京湾・相模湾を遠望できて多少はハイキング気分に浸れます。

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   (2022年6月6日記録)

#四次元的路上観察 #武相二万歩 #大鎌倉 #鎌倉 #逗子 #横浜 #やまなみルート #池子

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